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温故知新(61)伊能忠敬 長久保赤水 渋川春海(安井算哲) 玉前神社 恐山 利尻山 フゴッペ洞窟 日光東照宮 神津島

 『千夜一夜物語』の船乗りシンドバッドの物語の中に登場する「カマル」という舵取りの道具は、コスタリカの石球の近くで発見された像も持っていましたが、世界中にあることが知られています1)。これは、結び目のある長いひもで、両端に木の四角形がついていて、結び目はさまざまな港の緯度を示しています。航海士は特定の結び目を口にくわえて、紐を北極星に向けることで船の位置を知ったようです1)。

 南米のインカ帝国で用いられていた文字によらない記録方法であるキープは、「結ぶ」あるいは「結び目」を意味し、租税管理や国勢調査などの統計的記述に用いられました。結縄(けつじょう)は、中国の古典籍にも習俗が伝わっていますが、琉球諸島、アイヌ社会、日本内地でも類例が報告されているようです。また、ヨーロッパでも、結び目はアルファベットとの対応関係が知られているようです。古代には、ストーンサークルで観測した情報を結縄によって記録していたのかもしれません。

 経度を測定するには、2地点で同時に月食や日食を観測する必要があり、ストーンサークルは見晴らしの良い場所にあることから、鏡を用いた光による情報伝達なども行われていたと思われます。2地点の日食や月食の開始時間の差の測定は、測定者が星の動きから感覚的に1秒単位で測定できるようにあらかじめ訓練されていたのかもしれません。距離の単位は、紀元前221年に秦の始皇帝が1歩を6尺、一里を300歩に定めていますが、古代には、歩数により、かなり正確な距離の測定ができたと思われます。

 1800年から1816年まで、17年をかけて『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬の距離の計算方法は、歩いた歩数をもとにしていて、歩幅は69cmということが分かっています。伊能忠敬の実測地図ができる42年前に、長久保赤水が初めて経緯線の入った日本地図を発行しています。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身ですが、長久保氏のルーツは、現長野県である信濃国小県郡長久保村で、長久保氏には、丹生氏と関係があると推定される信濃国造金刺舎人の子孫もいるようです。赤水が天文学の入門書としてまとめた『天象管闚鈔てんしょうかんきしょう』(安永三年 1774) をもとに後年『天文星象圖解』が版行されています。天文学は地図を制作するために必要で、赤水は、渋川春海安井算哲)門下で水戸藩の儒学者 小池友賢 (1683-1754) や、その弟子の大場景明 (1719-1785) から学んだといわれます。

 伊能忠敬は、1745年に、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれました。小関という苗字が最も多い市町村は、千葉県長生郡一宮町で、玉依姫命を祀る上総国一宮 玉前神社(たまさきじんじゃ)があります。

 上総国一之宮 玉前神社と出雲大社を結ぶレイライン御来光の道)は、富士山、身延山伊吹山元伊勢(福知山・皇大神社)、伯耆富士や出雲富士とも呼ばれる鳥取県の大山などを通ることが知られています。玉前神社と藻岩山を結ぶラインは、大高山神社イタコの口寄せも行われる青森県むつ市の恐山にある恐山菩提寺の近くを通ります(図1)。玉前神社とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインは、武蔵国一之宮 氷川神社や群馬県高崎市の榛名神社の近くを通り、出雲大社と藻岩山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1、2)。玉前神社の古社記には、鵜茅葺不合命(開花天皇と推定)の神名が併記され、日の御子に関わる信仰も厚いことから、玉依姫命(姥津媛、台与と推定)をギリシア神話の女神レトに例えて、開花天皇と姥津媛の子の彦坐王(日子坐王)をレトの子であるアポロンに例えているのかもしれません。

図1 玉前神社と出雲大社を結ぶラインと身延山、伊吹山、玉前神社と藻岩山を結ぶラインと大高山神社、大湯環状列石、恐山菩提寺、玉前神社とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインと氷川神社、榛名神社
図2 図1のラインと玉前神社と古代都市ラト(Ancient City of Lato)を結ぶライン

 恐山菩提寺の創建年代は不詳ですが、寺伝によれば862年天台宗の僧円仁がこの地を訪れ創建したと伝えられ、その後、1522年曹洞宗の僧聚覚が円通寺を建立して恐山菩提寺を中興しました。恐山は元々は地蔵信仰の地で、古代人は、恐山の賽の河原の聖石のまわりに、亡くなって間もない死者の魂が集まると考え、これが地蔵信仰と結びついたと考えられています2)。柳田国男氏は、仏教が伝わる前の日本人は死者の霊魂が帰っていく方向は西北であると考えていたことを指摘しています2)。恐山展望台のある矢立山とオリンポス山を結ぶライン上に、恐山菩提寺や地蔵山があります(図3)。恐山の主峰である地蔵山が、古代人の聖山でレイラインの指標だったと推定されます。

図3 恐山展望台(矢立山)とオリンポス山を結ぶライン上と、恐山菩提寺、地蔵山

 修験道では、北極星のある北方が聖なる空間とされ、出羽三山や戸隠山のような聖山を北方にひかえる地に道場が造られていますが、地蔵山の南にある五智山には、五智如来といわれる五体の石仏が祀られています。武光 誠氏は、古代人が山岳信仰を生み出したところが、のちに中国の五行説に基づく風水の考えを取り入れた修験道と結びついたとしています2)。

 北海道積丹半島の余市町にあるフゴッペ洞窟の壁には、1,500年から2,000年前のものと推定される絵が刻まれています3)。フゴッペ洞窟の近くには、西崎山環状列石(余市町栄町)、忍路環状列石(小樽市忍路)、地鎮山環状列石(小樽市忍路)があります(図4)。

図4 フゴッペ洞窟(余市町栄町)、西崎山環状列石(余市町栄町)、忍路環状列石(小樽市忍路)、地鎮山環状列石(小樽市忍路)

 利尻山(利尻富士)や蝦夷富士とも称される羊蹄山(ようていざん)などを通るレイラインが、フゴッペ洞窟や岩木山を通ることが知られています。利尻山と複数のレイラインの拠点となっている神津島を結ぶラインは、このラインとほぼ一致し、大型の環状列石が見つかっている鷲ノ木遺跡(北海道茅部郡森町)、亀ヶ岡石器時代遺跡鳥海山大物忌神社 山頂本殿、環状列石(山形県長井市)、日光東照宮(栃木県日光市)の近くを通ります(図5)。日光東照宮と神津島を結ぶラインの近くには、5世紀後半から7世紀中頃にかけて築かれた埼玉古墳群(行田市)や、田端環状積石遺構(町田市)、仁徳天皇が創建し徳川家康によって復興された平塚八幡宮(平塚市)があります(図6)。

図5 利尻山(利尻富士)と神津島を結ぶラインとフゴッペ洞窟、羊蹄山、鷲ノ木遺跡、亀ヶ岡石器時代遺跡、岩木山、鳥海山大物忌神社 山頂本殿、環状列石(山形県長井市)、日光東照宮
図6 日光東照宮と神津島を結ぶラインと埼玉古墳群、田端環状積石遺構、平塚八幡宮

 瑜伽山と黒曜石で知られる神津島を結ぶラインは、岩上神社(淡路市)の神籬石(ひもろぎいし)、丹生川上神社 中社、皇大神宮別宮 瀧原宮の近くを通ります(図7)。瑜伽山は、神津島ともレイラインでつながっていることから、縄文時代から聖地だったと推定されます。神津島は安房神社とつながり、安房神社阿波の忌部一族が建てたと伝わるので、丹生氏は忌部氏と血縁関係があると推定されることと整合します。

図7 瑜伽山と神津島を結ぶラインと神籬石(淡路市)、丹生川上神社 中社、皇大神宮別宮 瀧原宮

 フゴッペ洞窟と瑜伽山を結ぶラインは、神津島とギョベクリ・テペを結ぶラインとほぼ直角に交差し、これらのラインは、三川山 蔵王大権現社(兵庫県美方郡香美町)や事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)本宮(静岡県掛川市)、六所神社(静岡県浜松市)、大虫神社の近くを通ります(図8)。丹生川上神社や大虫神社は、丹生氏と関係があるので、旧石器時代から古墳時代初期まで文化的には継続していたと考えられます。また、ライン上に日光東照宮があることから、徳川家康が丹生氏と血縁関係があると推定されることと整合します。

図8 図7のラインと、フゴッペ洞窟と神津島を結ぶライン、瑜伽山とフゴッペ洞窟を結ぶラインと三川山 蔵王大権現社、神津島とギョベクリ・テペを結ぶラインと事任八幡宮本宮、六所神社、大虫神社

 『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』によると、亀ヶ岡人は4,000年前の天変地異によって全滅したとされています3)。北海道は亀が岡文化圏に含まれ、アイヌの叙事詩『ユーカラ』に登場する文化神である「オキクルミカムイ」が「遮光器土偶」の正体として有力視されているようです。オキクルミカムイには、遮光器土偶と同じように胸や裾に唐草模様の印刻が施されているので、並木伸一郎氏は、遮光器土偶はオキクルミカムイをモチーフにしたのではないかと記しています3)。亀ヶ岡石器時代遺跡は神津島とつながり、神津島はギョベクリ・テペとつながっています(図8)。オキクルミカムイの胸にはV字の浮き彫りがあり、ギョベクリ・テペ出土の石像にも胸にV字の浮き彫りがあるので、もしかすると、オキクルミカムイは、ギョベクリ・テペの石像とも同じ神かもしれません。

 神津島日前神宮・國懸神宮は、同緯度(北緯34度13分)にあり、神津島と環状列石(山形県長井市)と日前神宮・國懸神宮をラインで結び三角形を描くと、環状列石(山形県長井市)と日前神宮・國懸神宮を結ぶラインと神津島とオリンポス山を結ぶラインはほぼ直角に交差し、神津島とオリンポス山を結ぶラインは、岩屋岩蔭遺跡(金山巨石群)や大日ヶ岳の近くを通ります(図9)。

図9 神津島と環状列石(山形県長井市)と日前神宮・國懸神宮を結ぶライン、神津島とオリンポス山を結ぶラインと岩屋岩蔭遺跡、大日ヶ岳

 縄文人の下半身の骨格は丈夫で、健脚だったと推定されています。1万年以上という時間を考えると、聖地が直線で結ばれているのは、最短距離で結ぶラインにある山や岩などを目印にしたり、場合によっては加工を行って目印としたのではないかと思われます。弥生人は、縄文人の文化を受け継ぎ、神社などを建立し、レイラインをさらに発展させたのではないかと思われます。

文献
1)コリン・ウィルソン 松田和也(訳) 「アトランティスの暗号」 学習研究社
2)武光 誠 2003 「「鬼と魔」で読む日本古代史」 PHP文庫
3)並木伸一郎 2023 「日本史 書き残された不思議な話」 三笠文庫