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温故知新(61)恐山 月日山 岩木山 藻岩山 利尻山 フゴッペ洞窟 日光東照宮 埼玉古墳群 神津島 ギョベクリ・テペ

 恐山菩提寺の創建年代は不詳ですが、寺伝によれば862年天台宗の僧円仁がこの地を訪れ創建したと伝えられ、その後、1522年曹洞宗の僧聚覚が円通寺を建立して恐山菩提寺を中興しました。岩木山にある岩木山神社 奥宮(青森県弘前市)とイタコの口寄せも行われる青森県むつ市の恐山にある恐山菩提寺を結ぶラインは、月日山の山頂付近にある日月神社(青森県十和田市)とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。日月神社とオリンポス山を結ぶラインは、三内丸山遺跡を通ります(図1)。月日山は、古くから「死者の霊は、いったん月日山に集まり、それから恐山に行く」と伝えられている霊山です。

図1 日月神社、岩木山神社 奥宮、恐山菩提寺を結ぶ三角形のライン、日月神社とオリンポス山を結ぶラインと山内丸山古墳

 恐山は元々は地蔵信仰の地で、古代人は、恐山の賽の河原の聖石のまわりに、亡くなって間もない死者の魂が集まると考え、これが地蔵信仰と結びついたと考えられています1)。柳田国男氏は、仏教が伝わる前の日本人は死者の霊魂が帰っていく方向は西北であると考えていたことを指摘しています1)。恐山展望台のある矢立山とオリンポス山を結ぶライン上に、恐山菩提寺や地蔵山があります(図2)。恐山の主峰である地蔵山が、古代人の聖山でレイラインの指標だったと推定されます。

図2 恐山展望台(矢立山)とオリンポス山を結ぶライン上と、恐山菩提寺、地蔵山

 上総国一之宮 玉前神社と出雲大社を結ぶレイライン御来光の道)は、富士山、身延山伊吹山元伊勢(福知山・皇大神社)、伯耆富士や出雲富士とも呼ばれる鳥取県の大山などを通ることが知られています。玉前神社と藻岩山を結ぶラインは、大高山神社大湯環状列石、恐山菩提寺の近くを通ります(図3)。玉前神社とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインは、武蔵国一之宮 氷川神社や群馬県高崎市の榛名神社の近くを通り、出雲大社と藻岩山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3、4)。玉前神社の古社記には、鵜茅葺不合命(開花天皇と推定)の神名が併記され、日の御子に関わる信仰も厚いことから、玉依姫命(姥津媛、台与と推定)をギリシア神話の女神レトに例えて、開花天皇と姥津媛の子の彦坐王(日子坐王)をレトの子であるアポロンに例えているのかもしれません。

図3 玉前神社と出雲大社を結ぶラインと身延山、伊吹山、玉前神社と藻岩山を結ぶラインと大高山神社、大湯環状列石、恐山菩提寺、玉前神社とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインと氷川神社、榛名神社
図4 図3のラインと玉前神社と古代都市ラト(Ancient City of Lato)を結ぶライン

 修験道では、北極星のある北方が聖なる空間とされ、出羽三山や戸隠山のような聖山を北方にひかえる地に道場が造られていますが、地蔵山の南にある五智山には、五智如来といわれる五体の石仏が祀られています。武光 誠氏は、古代人が山岳信仰を生み出したところが、のちに中国の五行説に基づく風水の考えを取り入れた修験道と結びついたとしています1)。

 北海道積丹半島の余市町にあるフゴッペ洞窟の壁には、1,500年から2,000年前のものと推定される絵が刻まれています2)。フゴッペ洞窟の近くには、西崎山環状列石(余市町栄町)、忍路環状列石(小樽市忍路)、地鎮山環状列石(小樽市忍路)があります(図5)。

図5 フゴッペ洞窟(余市町栄町)、西崎山環状列石(余市町栄町)、忍路環状列石(小樽市忍路)、地鎮山環状列石(小樽市忍路)

 利尻山(利尻富士)や蝦夷富士とも称される羊蹄山(ようていざん)などを通るレイラインが、フゴッペ洞窟や岩木山を通ることが知られています。利尻山と複数のレイラインの拠点となっている神津島を結ぶラインは、このラインとほぼ一致し、大型の環状列石が見つかっている鷲ノ木遺跡(北海道茅部郡森町)、亀ヶ岡石器時代遺跡鳥海山大物忌神社 山頂本殿、環状列石(山形県長井市)、日光東照宮(栃木県日光市)の近くを通ります(図6)。日光東照宮と神津島を結ぶラインの近くには、5世紀後半から7世紀中頃にかけて築かれた埼玉古墳群(行田市)や、田端環状積石遺構(町田市)、仁徳天皇が創建し徳川家康によって復興された平塚八幡宮(平塚市)があります(図7)。

図6 利尻山(利尻富士)と神津島を結ぶラインとフゴッペ洞窟、羊蹄山、鷲ノ木遺跡、亀ヶ岡石器時代遺跡、岩木山、鳥海山大物忌神社 山頂本殿、環状列石(山形県長井市)、日光東照宮
図7 日光東照宮と神津島を結ぶラインと埼玉古墳群、田端環状積石遺構、平塚八幡宮

 瑜伽山と黒曜石で知られる神津島を結ぶラインは、岩上神社(淡路市)の神籬石(ひもろぎいし)、丹生川上神社 中社、皇大神宮別宮 瀧原宮の近くを通ります(図8)。瑜伽山は、神津島ともレイラインでつながっていることから、縄文時代から聖地だったと推定されます。神津島は安房神社とつながり、安房神社阿波の忌部一族が建てたと伝わるので、丹生氏は忌部氏と血縁関係があると推定されることと整合します。

図8 瑜伽山と神津島を結ぶラインと神籬石(淡路市)、丹生川上神社 中社、皇大神宮別宮 瀧原宮

 フゴッペ洞窟と瑜伽山を結ぶラインは、神津島とギョベクリ・テペを結ぶラインとほぼ直角に交差し、これらのラインは、三川山 蔵王大権現社(兵庫県美方郡香美町)や事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)本宮(静岡県掛川市)、六所神社(静岡県浜松市)、大虫神社の近くを通ります(図9)。丹生川上神社や大虫神社は、丹生氏と関係があるので、旧石器時代から古墳時代初期まで文化的には継続していたと考えられます。また、ライン上に日光東照宮があることから、徳川家康が丹生氏と血縁関係があると推定されることと整合します。

図9 図8のラインと、フゴッペ洞窟と神津島を結ぶライン、瑜伽山とフゴッペ洞窟を結ぶラインと三川山 蔵王大権現社、神津島とギョベクリ・テペを結ぶラインと事任八幡宮本宮、六所神社、大虫神社

 『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』によると、亀ヶ岡人は4,000年前の天変地異によって全滅したとされています2)。北海道は亀が岡文化圏に含まれ、アイヌの叙事詩『ユーカラ』に登場する文化神である「オキクルミカムイ」が「遮光器土偶」の正体として有力視されているようです。オキクルミカムイには、遮光器土偶と同じように胸や裾に唐草模様の印刻が施されているので、並木伸一郎氏は、遮光器土偶はオキクルミカムイをモチーフにしたのではないかと記しています2)。亀ヶ岡石器時代遺跡は神津島とつながり、神津島はギョベクリ・テペとつながっています(図9)。オキクルミカムイの胸にはV字の浮き彫りがあり、ギョベクリ・テペ出土の石像にも胸にV字の浮き彫りがあるので、もしかすると、オキクルミカムイは、ギョベクリ・テペの石像とも同じ神かもしれません。

 神津島日前神宮・國懸神宮は、同緯度(北緯34度13分)にあり、神津島と環状列石(山形県長井市)と日前神宮・國懸神宮をラインで結び三角形を描くと、環状列石(山形県長井市)と日前神宮・國懸神宮を結ぶラインと神津島とオリンポス山を結ぶラインはほぼ直角に交差し、神津島とオリンポス山を結ぶラインは、岩屋岩蔭遺跡(金山巨石群)や大日ヶ岳の近くを通ります(図10)。

図10 神津島と環状列石(山形県長井市)と日前神宮・國懸神宮を結ぶライン、神津島とオリンポス山を結ぶラインと岩屋岩蔭遺跡、大日ヶ岳

文献
1)武光 誠 2003 「「鬼と魔」で読む日本古代史」 PHP文庫
2)並木伸一郎 2023 「日本史 書き残された不思議な話」 三笠文庫








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