「あの世を巡らす」
「あれ、何処へやった?」
「あの日は、ほんとに大変だったね」
「あの人、どうしてるかしら」
「あんなに頑張ったのにね、残念ね」
「あ」の付く言葉は、大体が話者同士の了解のもの、と相場が決まっている。だから長年の夫婦の会話は「あれ、とって」「ほいよ」と会話が成立するわけだ。しからば「あの世」はどうだろう。ここ、じゃないから「あそこ」。この世、じゃないから「あの世」。
確かに「あの世」といえば、死後の世界を指すとは皆理解しているが、では確かにそれがあると確信している人がどれだけいるのだろう。確信、までいく人はそれほど多いとは思わないが、それでも毎年お盆の時期になると、人々は迎え火や送り火を焚いて、霊が道に迷わないようにとする。今の若い人も、ゆくゆくは両親が亡くなれば同じようにするのではないか。
「あの世」は霊のいるところなので、「あの世」を信じないということは霊も信じないということになるが、人は、頻度はそれぞれにしても仏壇の前や墓前で手を合わす。誰もが霊を信じているわけではないだろうが、何となくそうしていると気分がよくなったり、何となく亡くなった人が見守ってくれている気もして、ただ単に義務感で手を合わせるだけではないだろう。
神社へ行けば、その一帯へ足を踏み入れると何故か空気が変わった気がする。神聖な何かを感じるのは100パーセント錯覚なのだろうか。特に熊野神社や出雲大社など格式ある所は「パワースポット」的な扱いもあり、若い人もけっこう訪れて神聖な何かを感じるという人も多い。寺は仏教、神社は神道と説明すればわかりやすいが、皇室や氏神の祖神、偉人や義士などの霊が祀られている神社もあるとなれば、同じ霊を祀るのだから絶対的な違いはないではないか、ということにもなる。
さて、あなたはあの世を、霊を信じるだろうか。
親戚の亡くなった叔母には不思議な力があった。もうかなり前、まだ叔母が健在の時の話だが、あるニュース番組のコメンテーターのKが亡くなった。しばらくして、家族でたまたまその番組を見ていると、「あらKさん、テレビに出てるのね」と叔母が呟いたという。家族は「また冗談言って」と相手にしなかったのだが、それから数週間後、全国で同じようにkさんを見たという人が続出したという記事が週刊誌に載り、叔母の家族がびっくりしたということだ。「霊感」がある人はけっこう多いということになる。
また、友人の知り合いには実際霊が見える人がいるということで、一度詳しく話を聞きたいと思っているのだが、事業に失敗し、何年か前にはどこかの党から市議選挙に出て落選し、今は普通にサラリーマンをしているという。そういう力があっても、それが自分の実になるようなことはないらしい。
近所の人と親しく話す機会があるのだが、その家のご主人が体調悪く、どこへ行っても原因がわからないでいたところ、ある気功の先生を紹介され、診てもらったところ「狐の霊」がついているとのことで、お祓いをしてもらい、翌日からすっかりよくなったという話を聞いた。全国の稲荷神社の総数は膨大な数に上るという。もし狐に霊があるとするなら、猫には、豚には、鼠には、はたまた蛙には、ときりがなくなる。
そんなこんなでけっこう周りに不思議な人や、不思議なことがあり、そういう環境の中にいると、霊を信じないまでも、「あるかもしれない」とは思う。
よく病気になった芸能人が代替医療に頼った顛末を報道することがある。批判的な論調でなされることが多いが、本人や家族はやむにやまれず縋(すが)る思いで一縷の望みをかけたのかもしれないので、外野が口を出すことではないと思う。
臨死体験の話もいろいろに流布されている。科学的には死に際して脳から出るドーパミンの作用、と説明されているようだが、それが全てかと言われると本当のところはやはりわからない。
生まれ変わりの子供の話もよく聞くが、これもどこまで嘘でどこまで本当なのかもわからない。
結局は、死んでみないことにはホントのことはわからないのだが、わかっても、もう生きている誰かに教えることはできない。
死んだらそれっきり、死は虚無以外の何物でもない、と言う人もいる。あの世など、あるはずがないではないか、と。そうやって言い切るには何か証拠があるのだろうか。あるはずがない。結局は、その人の思考ひとつなのである。
ある、とも、ないともわからないが、何となく死んだ父親が見守ってくれているような気がして手を合わせる。何となく気分が清々しくなるので、お墓参りをよくする。父親や祖父、祖母だけでなく、その前の先祖にもその延長で手を合わせたくなる。手を合わせていると、何故か先祖に親近感が生まれる。彼らから引き継いだものが確実に自分の中にはあるのだ。
この、「なんとなく~気がする」という感覚はかなり大切だと思う。その言い方で云えば、必ずしも言い切れはしないが、なんとなく霊はあるような気がする、というのが正直なところだ。霊があるなら、「あの世」もあるような気がする。だから自分が死んだら、また「あの世」で亡くなった肉親にも、親しかった人にも再会したい。
死は虚無、と考えるのもわかるが、本当にそれで「tha end」では死が怖すぎる。親を見送る時に、ありがとう、本当にありがとう、またあの世で会えるからね、と語りかけるとほんの少しだけ悲しみがほどける気がする。
岡島二人の『クラインの壺』という小説がある。今のVRを先取りした作品で、主人公がバーチャルリアリティシステムの中へ入るが、最後にはどこが虚構で何が真実なのかわからなくなるというストーリーだ。映画『アバター』は、本人が装置の中、アバターが本人の代わりに現実で動き廻るのだが、そのアバターもなく、装置の中にいる人間だけで完結していると考えるとわかりやすいかもしれない。
ベッドの横で誰かが泣いている。ああ、もうすぐ自分は死ぬんだと思う。次第に意識が遠のいてゆく。確かに何かで読んだように、死の直前は痛みもなくなり、何かゆったりと気持ちが落ち着いてくる。頭の中にドーパミンが出ているのだろうか。もう、これで死ぬのだなと再び思う。次第に光の中へ吸い込まれる感覚があり、そして意識が停止する。
次の瞬間、パカッと音がして目の前の扉が開き、眩しい光が見える。そして声がする。
「さあ、****としての人生体験はいかがでしたか?」