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海辺のカメラノート 2 波打ち際で

とりあえず「目につくもの」

 限定された波打ち際で写真を撮るということを課題として、実際に現地に行ってみました。1週間に一度は自転車に乗りぐるりと一回りする公園なので、そこがどんな状態になっているかはわかります。実は臨海公園には「人工渚」の砂浜もあるのですが、人けのない波除の石などが積まれているエリアで撮ることにしました。
 これは案外難しい「対象」です。なぜならば、常にそこには波打ち際に打ち寄せられたモノが散乱しているからです。まずここで美しい海岸なり水辺の景観を撮ろうという方向にはなかなかいきません。つまり、それらのモノは「異物」であり海の写真を撮る場合に限り邪魔なものなのです。

対岸は浦安舞浜のあの「リゾート」。

 しかし、打ち寄せられたモノが、どんなものなのか分かるものと、分からないものがあることに気づきます。漂流している間にラベルが取れたなにがしかのモノもありますし、元の形がまったく想像できないモノもあります。一方で、どうしてこんなモノがここにあるのか考え込んでしまうモノもあります。どちらも面白いなと思います。名前や用途などを失ったそれらは、よく言われるように「オブジェ化」し、そのモノとしての形や色や質感だけを際立たせています。しかし写真の「路肩注意」という(文字のある)標識は、ここでも標識であり続けています。ただしここではその用途はまったくありません。「意味」のみ残っています。左下にある「鍋」もまた同じ。取っ手がしっかりついているからかもしれません。

原型とは別のものに変形してしまったものもたくさんあります。

    とりあえず目につくものを撮るということなので、あまり考え込まずに自由に撮ればよいのですが、本当は自分にとって特に魅力的でも不思議でもないモノなので、それほど撮ることに執着しないままシャッターを押してしまいます。しかしそれでもよいのです。ここで撮る上での理屈を考えたり、自分の生き方を照らして撮るというようなものでもありませんし、「イメージ」はそれほど明確になっているわけでもありません。とりあえず「目につくもの」を写真に撮ってみることで、そこからなにか浮かんでくるものがあるのか否か。かつてのフイルムカメラではその場で確かめられなかっただけに、デジタルカメラの恩恵を素直にここで受け入れてみるという態勢でいることが大事です。どのように写ったかな? という程度で十分です。

 モノを少しよく見てみる、さらにその周辺も見てみる

  しかしながら、しばらくこうしたモノを撮っていると飽きてきます。砂浜の美しい貝殻などを撮るのとちょっと違いますし、自分はここで一体なにをしているのかなぁ?と思ったりします。ここでの私も、とりあえず写真家なのだから、少しはクリエイティブな行いをすべきかもと思い、今度は打ち寄せられているものの中から、複雑に削られてしまった木を探し、その「形態」をじっくり肉眼で確認してみました。

 これは面白い行いでした。なんだか彫刻作品のようですし、形は見る角度や太陽光の加減により細かく変化しています。なにかしらかの動物にも見えてきました。その通り、平らなものではなくこれは「立体」ですから、「形態」といってよいものです。それを写真という平面に置き換えるのだなぁと実感したりします。本当はここでもっと慎重に背景との関係、モノと場の成り立ちを考えるべきなのですが、またしても飽きっぽくなり、もっと違う被写体を探そうと、見える範囲でチョコチョコ動いてみました。
 すると、近くに粉々になった木片が無数に散らばっているところがありました。普通ならぱこんな細かなモノは見過ごしてしまうものです。しかしながら、よく見てみようと思い見ることで、不思議に見えてくるもので、ここには木片だけでなく、色のついた小さな割れたモノもたくさん混じっていました。それらは主として「プラスチック」です。これらの細かなものも海に浮かび、漂流し、ここに海水とともに打ち上げられたということです。

「砂を数える」という言葉を思い出します。

 これらのプラスチックは、「マイクロプラスチック」というべきものも含まれ、地球の環境問題と深く関わり、私たち人間が今しっかり考えていかなければならないのはもちろんですが、その前にこうして私たちの目で確認していく必要がある「出来事」のひとつです。実際にこれらのマイクロ、ミクロ世界を装置を使い写真に撮っている写真家もいます。私のようなここでの軽い関わりではなく、計画に基づきカメラとレンズの力を発揮させた「視点」がとらえる写真表現としてのメッセージは貴重です。写真を撮りながらそんな思いにさせられました。

モノには時間も宿る

 さて、具体的にモノや場に立ち会っていますと、当然ある程度の時間が流れます。写真家としては海そのものにももちろん興味もありますから、そちらに眼を向けるのも良いでしょう。杉本博司さんの海の風景など名作もありますし、四季折々、さまざまな天候、時間に東京湾を美しく撮られた方もいます。私もここで何年か前、大型カメラに「感光紙」をフイルム代わりに入れ、20分の長時間露光で海を写すという試みを続けたことがあります。露光されている時間とそこにいる私の身体が同化するような経験でした。それはいずれまたお見せしましょう。
 ともあれ、写真を撮るということは、やはり「時間」を強く意識しなければならない局面が出てきます。長時間露光にせよ、1/4000秒のシャッター速度にせよ、常に時間に関わるわけで、それが写真家の仕事とも思えます。そして時間は「過去」と「現在」、さらには「未来」をも暗示させていくイメージが宿っていいます。私の今回の海辺の実験でも、気まぎれに撮っていたモノにでさえ、濃厚な時間がそこに宿っているのも事実です。
 最後にこの「とりあえず目につくもの」の実験時に撮った2枚の写真をお見せします。被写体は随分違いますが、経てきた長い時間と短い時間のうちの細かな変化の2枚を並べてみました。そこに容易に「物語」が介入するわけではありませんが、いろいろと想像してみたくなります。美しい写真でもなければ、珍しい写真でもありませんが、写真に撮ってみてよかったなぁ。と正直思えます。ここからイメージの源泉を確かめてみることの面白さをちょっと掴めたような気がしました。

波間を長い時間漂いながらも原型が崩れることなく、
これはスニーカーであることを最後まで主張してきたモノ。
乾いた砂浜と濡れた砂浜。時間の間。

次回につづく


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大西みつぐ / 写真家
古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。