1000文字の写真論
6 視点を貫く認識や思考
「視点」については前回少し触れましたが、さらに深く考えてみたいと思います。物理的な視点と、考え方としての視点がどのように融合していくかという問題です。
まず当然のことながら「カメラアングル」なり「ポジション」を意識しますと、カメラがどこにあるのかということが具体的に問われます。「高い位置」、「低く位置」、あるいは「先まで見通しがきく位置」 「手前が少しふさがっている位置」など、いくつかカメラの置かれた状況が思い浮かぶでしょう。そして、そこに「構図」という枠組みを与えていけば、ある程度写真が完成しそうな予感もします。これは「風景写真の撮り方」といった解説によくあるわかりやすい誘導のひとつともいえます。決してそれを否定するわけではありませんが、実はここで大事なことは、その風景に対して自分なりの見方、見え方が適用されたものであるか否かです。もちろんそんなことを考えなくても、シャッターを押せば結果において何らかの写真は写っていくわけですが、そこに物理的な視点だけでなく、「考え方」としての視点も加わっていきますと、その写真はより語り出してくるように思えます。
例えば、ある国の「独裁者」が民衆を前に演説しているとしましょう。独裁者の後ろ姿を前景に、背景には何千、何万とも思える人々の群れが写っています。それらはまさに民衆を全て掌握したようなその独裁者の「視点」になります。反対に民衆側からその独裁者の話す舞台のような高い位置を見上げれば、偉大な存在といった修飾に似たイメージが出来上がるかもしれません。つまり、「視点」にそうした社会的な立場や政治的な意味や、世界に対する認識を反映させることもできてしまうということなのです。そこまで大袈裟に考えなくとも、その人の「物の見方、思い」などが視点として表れることで、その写真の表現力、あるいは作品性は自ずと増してくるはずです。
「視点」という言葉は、故に新聞の論壇やテレビニュースの解説コーナーなどによく使われたりします。だから写真は政治経済を意識しろといっているわけではありません。撮影以前、以後に関わらず、レンズの焦点距離を考え、カメラアングルや構図などを考える時、いったい自分の視点とはなんなのかをちょっと問いかけてみるといいかもしれません。そのことで、改めてカメラを構える「立ち位置」を修正する場合も出てくるでしょう。そのことを面倒と思わないで、むしろ歓迎することで作品はより際立ってくるでしょう。
古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。