1000文字の写真論
11 できごと
かつて「今日の出来事」というニュース番組がありました。「出来事」ですから、その1日にどんなことがあったのか。政治、経済、社会などが主で、時に、誰か有名人が結婚したというニュースもあったかもしれません。私たちはその「出来事」とは何やらいつもとは違うような事態、あるいは事件を連想したものです。
新聞の見出しのような「出来事」でなく、写真の上での「できごと」も、ニュースとはいえないまでも、ちょっとした顛末、あるいは何かの経緯やその結果のようであるかのように思われるかもしれません。具体的に写真コンテストに応募されるスナップ作品などでは、この「できごと」は面白そうな状態や意外な仕草、偶然の動きなどとして表れてきます。またそのように「狙う」、「仕組む」こともあります。、何か起きていないと写真にならないと思われるからかもしれません。
それははたしていいのか悪いのかを問うよりも、まず私たちが「写真を撮る」という行いもまた「できごと」の一つであることを知っておく必要があります。スマホの時代ですから、多くの人が当たり前のように「写真」を撮りますが、ミラーレスや一眼レフを構えてあらゆる人たちが常時シャッターを押しているわけでもありません。それらに比べて、みなさんや私はやはりカメラで写真をいつも撮っているような人間でしょう。
つまりそうした「できごと」を自らが作り出しているということになります。反応のようなスマホのシャッターとはちょっと違うのではないでしょうか。そこに何がしかの価値もあり、また節度を持たねばならない部分も多々あるはず。
一方で、被写体を考えた時、いつも何か面白い状態が提供されているはずもなく、これはというハプニングも準備されてはいません。初めからそんなことを期待して網を張る写真撮影などというのはなんだか本筋から離れているよう。元々、淡々と「できごと」が動いていくのが1日。それは「日常性」といえるものです。「できごと」を過剰に期待せず、そこに誰がいて、何があり、どんな光があり、どのように動いたり、止まったり、移ろったりしているのか。それだけでも「できごと」はそこに生じていることを深く思うべきなのかもしれません。
わかりやすいお話を無理に作り出す必要もなく、それは必ず結果として付いて回るものだと思えばいいのです。「ただのできごと」に人間と社会の機微が隠されているかもしれません。
古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。