とび箱がとべなかった私と今もとべない誰かと体育の先生へ

とび箱の授業が苦痛だった。
もうとび箱の授業のことなんて忘れたと思っていたのに、とび箱の授業と似たような状況になってあの頃のことを思い出した。苦しかった。
あの頃には言語化できなかった感情・状況を言語化できるようになったので、今も苦しんでいる誰か、知らない間に苦しめている先生に読んでほしい。


1.とび箱がとべなかった私

私は運動神経が悪く、体育の授業が嫌いだった。特にとび箱の授業はお腹が痛くなるくらい嫌だった。


国語や算数(数学)などの授業は、大人になったら使うかもしれないから頑張って勉強しようと思えた。

でも、
人生でとび箱なんてとぶ機会ある?
とび箱がとべなくて困ることある?
とび箱がとべるメリットって何?

先生が私の納得する答えをくれるとは思えなかったから、先生に質問する気にもならなかった。
私に限らず運動嫌いの子供たちはこうやって聞くのを諦めているだろう。

とび箱の授業が苦痛なのは、私がとび箱を飛べないからで、とび箱さえとべれば状況は好転する。
私はとび箱をとぶ動機づけのために、とび箱の周りは灼熱で、とべなかったら死ぬという設定を作り上げた。
しかし、とび箱の練習をし続けるなら出口のある死の方がマシだと思い、動機づけ作戦は失敗に終わった。

そもそも私はとび箱がとべる気がしなかったし、とべるようになりたいとも思っていなかった。なのに先生は私がとび箱をとべると信じ切っていた。

私の受けたとび箱の授業は、高さの違うとび箱がいくつかあり、自分に合ったとび箱のレーンに並び、自分の番になったらそのとび箱をとぶというものだった。とび終わったら1番後ろに並んだ。休憩する人は誰もいなかった。
私は先生が望む通り、毎回とび箱に向かい、諦めていない姿を見せていた。何回も何回もとび箱にお尻をつき続けた。
どうせとべないのに、走って、とび箱にお尻をついて、列の後ろに並んで、またお尻をついて、並んで…


私は泣いた。
悔しいから泣いたのでない。
できるはずのないことをひたすらやり続けなければいけない苦痛で無意味な時間に泣いた。
できないのに諦められない、抜け道と出口のない時間に泣いた。

泣くと人が集まってきて慰めたり励ましたりしてくれた。
できないことがみんなに知れ渡り、大ごとになって、みんなが私に興味を持ってしまった。余計泣いた。

運動神経のいい子たちは「こんなのもとべないの?」と思っていたはずだ。
心の底では見下しているんだろう。
彼らにはできて私にはできないという事実が
私の中で、クラスの中で、先生の中で浮き彫りになったことにも泣いた。
「かわいそう」が可視化され、「かわいそうな人」になった事実を受け入れることが辛かった。
私だけがとび箱をとべないとき、私だけができないなんて、私は価値や能力がない人間なんだ、誰よりも劣っているんだと思った。
その体育の授業ではとび箱がとべること以外は求めらていなかったから。

運動神経のいい人たちが冗談を言い合いながら軽々しくとんでいるのを横目で見て、その笑顔が憎く感じたこともあった。
彼らは冗談を言う余裕があるのに、私はどうしてこんなに苦しい思いをしているだろう。

先生は彼らを褒める。
彼らはとび箱に真摯に向き合わず、授業中に軽口を叩いているにも関わらず、褒められている。
このとび箱の授業は彼らの自尊心を高め、私の自尊心を削るためにあるのではないかとさえ思った。
先生の言う通りにとび箱に向かって走り続け、いつまでもとべない私の方が劣っている人間だ。褒められることなどない。

とび箱がとべないだけの私はなぜこんなに苦しい思いをしなければならないのか。


本当は泣きたくなかった。

どうして泣きたくなかったか。
涙を見せるのが嫌だったから。

どうして涙を見せるのが嫌だったか。
とび箱の練習を続けさせられるから。

とべないのが悔しくて泣いていると勘違いした友達や先生が助けようとしてくれるから。
そんなのはいらない。諦めさせてくれ。

できるよ!頑張れ!
そんな言葉はいらない。
できるようになりたいとか思ってないし。
そんなことを言える子どもではなかった私は、とび箱がとべなくて泣いてるかわいそうな奴だった。
先生含め、心の優しい子はとび方のコツを教えてくれた。


それが本当に苦痛だった。


頼んでもいないのに、教えてくれたからにはお礼を言わないといけない。
「ありがとう」って。
「できなくてごめんね」って。
それを言うのも泣きそうだった。
頼んでもないのに、勝手に教えに来ただけなのに。
とびたくないのに。どうして謝らないといけないのだ。
とべないのは私だけの問題で、私は申し訳なさを感じていないのに、誰かと問題を共有することによって、誰かに謝らないといけない、おかしい。

他の教科は誰かがあてられても、周りの人が答えを教えてくれて、その答えを復唱したり、最悪の場合、先生が「わかった?」と聞いて、「わかった」と答えれば「わかった」認定されて、それで終わる。
なのに、体育は本当に自分の力だけで全部ができるようにならないといけない。ごまかしがきかない。

一人で体育の時間が終わるまで先生の指示に従って、とび箱に向かっていただけなのに、誰かのとべるという期待を背負うことになった。地獄だった。
私が作り上げた灼熱という設定が本当だったらどれだけよかっただろう。
同級生や先生の「かわいそうな子」を助ける思いやりに、正義に、善に、私は逆らえなかった。


救いの手があったのに、どうして私はとび箱がとべなかったのか。


それは説明の意味と自分の悪いところが分からなかったからだ。


先生や同級生のとび方の見本や説明は聞いたが、とび箱がとべる原理や飛べない理由もわからなかった。自分で正解を導き出すしかなかった。

友達や先生は個別に飛び方を教えてくれた。
それでもとべなかったのは、その説明か私にとって抽象的すぎたからだ。
運動神経がいい人特有の感覚で教える感じが
知らない国の言語のように聞こえて、何を言っているのかさっぱり分からなかった。

2.体育やスポーツを教える全人類へ

伝え方について、もう一度考え直してほしい。

「この辺に手をついて」
「思いっきり」
「足をもっとあげて」

このような漠然とした指示を出したことはないだろうか。私のように頭で理解して体に指示するタイプの人間はこの指示でフリーズする。


「この辺」
どこやねん。
助走つけたら場所忘れるやん。
「この辺」を覚えることに精一杯で他のこと忘れる。
→とび箱に印をつけるなり、シミのところなど具体的な場所を提示してほしい。

「思いっきり」
こっちも思いっきりやってるって。
→「このとび箱壊したるぞと思うくらい」
「今の力は3くらいやから10くらいまでやってみて」など、比較対象や力加減を提示してほしい。

「足をもっとあげて」
「もっと」ってどのくらいやねん。
→「天井に足をつけるイメージで」「自分でこれ以上あげれないと思うところまで」など。


センチやメートルも使わないでほしい。
10cmと言われてもどのくらいかわからない。
「あと5cm足を広げて」

…そもそも5cmってどれくらい?15cmのものさしの3分の1か。15cmのものさしってどのくらいの長さだっけ?と15cmのものさしを頭の中で想像し、長さの微調整を繰り返す。
足を広げる、とは?
右足?左足?片足を2.5cmずつ広げる?これは4cmかな?と私はいろいろ考える。
「右足だけをもう靴一足分広げて、靴の向きは横ではなく縦」などと具体的な指示を出してほしい。足を広げる理由も教えてくれたらなおありがたい。

私は頭で理屈で考えてから行動する。
体育の時間には理屈がない。
理屈が分からないことには動けない。
「足を広げて」と言われても私の中では充分開けてるし、広げる理由もタイミングも分からない中で瞬時に正解を出すのは不可能だ。
体育では抽象的な指示ばかりで、疑問が次々に浮かんで、私は何をすればいいのか分からない。


当時の私は何も言えなかった。善意に刃を向けられなかった。
私は、自分が体育や運動ができない理由を言語化できなかったし、とび箱がとべるようになるための具体的説明をされたこともなかった。

運動はコツみたいなのがあって、それを体で覚えると自動的にできるようになるものだと思うけど、私はそのコツを頭で理解して体に落とし込む。頭で理解しないと何もできない。


とび箱がとべなかった私は、先生にどんな言葉をかけてもらえたら救われたのか。


「とび箱がとべることが目標ではない。とび箱をとぶときに使う筋肉を使うことが目的だから、とべなくていい。クラスで一番とぶ努力をしているし、とび箱に向き合っているよ」


体育の先生は「できる」なんて気軽に言わないでほしい。
できるというのであれば、精神論ではなく論理で証明してほしい。

「できる」と言ってしまうことは、「期待している」のと同じだ。
勝手に期待しないでほしい。別に体育の成績が1でもいい。
先生も「何人もとべない子をとべるようにしてきたから大丈夫」とかも言わないでほしい。それで「自分もとべるようになる!」と自信が持てる子だったら、もうとべている。

「できない事実」ではなく、「できないことを達成しようとしている努力」を褒めてほしい。「頑張れ」じゃなくて「頑張ってるね」と声をかけてほしい。
ほしいのは声援じゃなくて、見守りだから。

3.体育の授業の目的について

そもそも体育の授業では授業の最初に先生が「できるようになりましょう!」と言う。先生は教えればできると思い込んでいるように思えた。先生はできないことに対して否定的だった。


私があの時望んでいたことは、
とび箱がとべるメリット、目的の提示だ。
体育なんか楽しくないのでとべたら楽しいという精神論や生活の役に立つという抽象論は論外だ。


成功体験がないので、精神論は意味がない。
ただでさえ苦しいのに、ここでさらに精神論を振りかざすのは暴力である。

心の成長は体育以外でもできるし。
体づくりも違う、とべなくても似たようなフォームだったら体づくりになるだろう。


とび箱をとぶときはどこどこの筋肉を使い、その筋肉を活発に動かすことで、〇〇の効果が期待できる、その効果を得るための手段の一つとしてとび箱をとんでいるとか、〇〇ができると、他にも△△ができるようになる、とか具体的な効果を提示してほしい。とび箱がとべなくても同様の効果が得られる動作があるはずなので、代案も提示してほしい。

とび箱がとべることが目的ではなく、筋肉を動かすことが目的だと説明があれば、とび箱をとばなければならないというプレッシャーや憂鬱から解放される。

先生側もとび箱をとべるようになることを絶対条件にしたり、とべないことが悪いことだと子どもたちに思わせないようにしてほしい。
もちろん、先生が心の中で絶対条件にしたり、それを評価するのは自由だが、最後に「とべた人?」と聞かないでほしい。とび箱を飛べることにより得られる効果を最大限得ることを目標にしてほしい。

そしてもうひとつ。
体育やスポーツを教える人たちは、音声だけでどれだけ指示が伝わるかを試してみてほしい。
ラジオ体操の動きを音声で伝えるだけでも相当難しいと思う。
例えばラジオのおじさんの声を適当に切り取って、その切り取った部分の体操が完璧にできるか?ラジオ体操の動作を見本なしで言葉だけで子どもたちに伝えられるのか?
私が置かれていた環境はこれだった。正解が分からない中で、言葉の意味を考えている。

今の時代なら、とび箱をとぶ様子を録画して、一緒に見ながら具体的な体の動かし方の提示もできるはずだ。

4.体育が嫌いな人へ

運動神経が悪くても、劣っている人間じゃないよ。
もし私と同じ気持ちを抱えていて、勇気があれば、誰かにこのnoteを見せてください。

5.最後に

どうせ覚えていないだろうし、このnoteも読んでいないだろう小学校の担任の先生へ
「〇〇さん(私)が走るのと、◎◎さん(クラスで一番足が速い子)が走るのと全然違うように」と、たとえ話に足の遅い私を例に出したこと、今でも根に持っています。
授業中でしたが、私はその発言の後で泣きました。先生は泣いている私に気づいて、どうして泣いているのか私に聞きました。その時、私は先生が私を傷つけた自覚もないんだともう一度傷つきました。私は泣いている理由を言うのも恥ずかしくて、近くの席だった男子に悪口を言われたからだと嘘をつきました。その時の男子、嘘をついてごめん。
一生根に持つと思いますし、いつか先生に直接傷ついたと言ってやろうと思っています。謝られても許す気もありません。

どうか、体育に恨みを持つ人が少しでも減りますように。

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