思い出はたしかにぽろぽろする。
いま、仕事の前泊で、ある地方都市のホテルにいます。その駅は、5歳の私と母さんがよく通過した駅でした。そのころ父が仙台の(いや、仙台からさらに電車に乗った奥のほうの町の)工場に「出張」していたので(出張、出張と言っていて、幼いながらにその名称を覚えたが、1年くらいはそこにいたし、今でいうところのあれは転勤なり出向だったのだろう)、盆や正月のころには、私たちのほうが出向いて、父が住んでいた社員寮で過ごしたことがあったのでした。寮の近くには牛がいて、父がこぐ自転車の後ろに乗って進む風景には、トウモロコシ畑と赤い夕焼けが広がっていたことはよく覚えています。
で、その目的地に向かう道中にその駅はあったのです。
それは父が働いている会社と同じ名称の町の名前でした。
その駅を通過するころは、もはや陽が暮れた暗い中で、駅には駅名が書いてある頼りない蛍光灯的なものが光っていました。その駅につくとオートマティック的に、お父さんの会社と同じ名前だと母さんに、言っていたのでした。
家計の懐具合のせいだったのだろうけど、急行にも乗ってなかったんじゃないかなあ。各駅停車があったと思うのね。目的地にたどり着くのには、昭和の当時は、長い長い長い道のりでした。
この駅を下車したのは、今日が初めて。まるで未来都市。この緊急事態宣言な日々で、人はほぼなし。駅前の広場にはライトアップだけが煌めいていて、まるで夢のよう。
そして、5歳児の自分を思い出す。
5歳児のときは、母さんは30歳代前半だ。若いな。若かったんだなあ。
ちっこくて手のかかる5歳児を、長旅に連れて行ったんだな。大変だったねえ。
冷凍ミカンと、なぜか旅にいくときは、漫画とか駅の売店で好きなものを買ってくれました。お菓子も買ってくれたのかな。特別な時間でした。それで靴脱いで、向かい側の椅子に足を投げ出して(今、そういう人いないねえ)、停車する駅で駅弁売りの駅弁買ったり、何かを読んだりしながら、のんびり過ごしていたのでした。
車窓から見える風景は田園、田園、田園。長い長い時間でした。
母さんは今でいっぱいいっぱいなので、思い出話はほぼしないし、たいてい私が話した子ども時代のことは、母さんにとっては大したことでないので、ちょっとがっかりするほど覚えてない(そりゃそうだ、生活に追われていたのだしなあ)。
来週はまた母さん通院同行続きだし。
(私のために)思い出話をしてみよう。
自分の幼いころの覚えている風景にいる母さん。
今も母さんはここにいる。