犬のおっちゃん③
犬のおっちゃん①②の続きです。
季節は梅雨
だんだんMさんの言葉数は減ってきて、眠っているような日が続きました。
外の雨音はMさんにとっての子守歌の様に感じました。
その頃の様子
Mさんの交友関係は豊かで、ある時には有名企業にお勤めのお偉いさん。
ある時は宗教関係の方、昔からの知り合いの獣医さんも家族で訪ねて来てくれた。九州から、お姉さんも駆けつけてくれた。
もちろん、Kさんも毎日来てくれていた。にぎやかな毎日だったが、Mさんの家は鍵も無く、夜間は不用心。
Mさんは、自力ではほとんど動けなくなっていた。
私は、近くの交番に状況説明と見守りのお願いをしに行き、お巡りさんは夜間の見回りを快諾してくれた。
Mさんがかろうじて食べられたのは、ピーナツバターを塗った食パン、そしてアイスクリーム。
本人の希望で、毎日点滴をしていた。
週に1回は訪問診療を受け、薬の調整をしてもらっていた。
痛み止めの麻薬を使用していたが、痛みはだんだん増していた。
医師は本人に
「我慢しなくていい、お薬を増やしましょう」と麻薬の増量を提案した。
しかし、Mさんはこう言った
「先生、ありがとうございます。やせ我慢ではないのですが、痛みを感じている時は『私は今まだ生きている』と感じることができるのです。無理やり痛みを取ろうとは思いません」
排便が無くなって、お腹が張って苦しいので、ベッド上で摘便を行った。
コロコロの硬い便が、たくさんのガスと一緒に出て、とても楽になった。
負担の少ないように身体を熱いタオルで清拭した。
その頃には、友人らの協力でたくさんのタオルも肌着もそろっていた。
清拭をして、身体の負担が無いように、部分浴や手浴、足浴などを行いながら、残された時間を少しでも快適に過ごしてもらえるようにお手伝いした。
清拭をして、着替えをした彼からは、不思議と最初に会った時のような臭いは全くなかった。
終末期の様子
訪問診療の時、Mさんの意識は朦朧としていた。
呼吸も不安定で、時々無呼吸もあった。
医師が「Mさん、そろそろ病院に行きましょうか」と言うと
Mさんはコクリと頷いた。ぎりぎりまで自宅で過ごし、最期は病院に行くことが彼の希望だった。
病院はすぐ近くだったが、救急車を呼んで搬送してもらった。
病院につくと、一人ベッドで寝ているMさんの事がとても心配になって、ナースコールを手元に置いて、遠慮せずに押すように耳元で伝えると、
「聞こえてます、大丈夫です」と迷惑そうな顔をした。
知らず知らずのうちに、私の声はずいぶん大きくなっていたようだ。
入院してから、ほとんど意識の無い状態が続き、2日目の朝、彼は静かに息を引き取った。
亡くなった後
Mさんの自宅では、彼の友人やボランティアさん、お姉さん、Kさんたちが、きれいに掃除をして、ベッドにはきれいなシーツをかけて、蜘蛛の巣も全て取り払われ、見違えるような環境に整えて、Mさんの帰りを待っていてくれた。
最期病院を選んだ彼は、友人らが、このようにしてくれることを分かっていたのではないか、と思った
病院から自宅に帰ったMさんを囲んで、友人たちの和やかな時間が流れた。
私も、仕事を終えてお邪魔した。
最期まで自分らしく生ききった彼を囲む友人たちの顔には、淋しさよりも、安心感に似た表情が見て取れた。
彼はお金は無かったが、自分の為にこんなにも親身に動いてくれる友人たちが居た。
豊かな生活って何だろう・・・そんなことを考えさせられた。
Mさんに教えてもらったこと・・・
自分の周りの人を大切にしよう
自分自身も大切にしよう
嘘をつかず、明るく、自分らしく
自分ができることを毎日一生懸命にしよう・・・そう心に決めた
Mさんは、私に大切な事を教えてくれた。
Mさん ありがとうございました。
庭のライラックの木は、京都にある動物ボランティア団体の敷地内に移植された。