いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」 第8回 お正月
季節感を深呼吸!
いまにつながる江戸時代の暮らし「長崎歳時記手帖」
第8回 お正月 ~門松、子供の遊び、芸能民、絵踏み~
いまに伝わる年中行事や風俗習慣を、江戸後期の長崎で生まれた「絵」と「文」ふたつの歳時記を中心に、一年かけてご紹介していきます。今回は、一年の最初にして最大のお祭りごとである、お正月の様子を見ていきましょう。
「絵」は、町絵師で出島出入り絵師の川原慶賀が描いた「長崎歳時記」のシリーズで、原則として長崎歴史文化博物館のウェブサイト内にある「川原慶賀が見た江戸時代の日本(I)」からの引用でご紹介します。
「文」は、長崎の地役人であり、国学者でもあったという野口文龍による「長崎歳時記」。元旦から大晦日までの年中行事やならわしが、細かく記されています。
ふたつの「長崎歳時記」をまとめた拙著「川原慶賀の『日本』画帳」をお手元に置いていただくのも、おすすめです!
正月
元旦、家々では夜明け前のまだ暗いころから、恵方の水を若水として汲み、湯を沸かしてお茶を入れます。また、一年分の手ぬぐいも新しく下ろします。神棚、恵方棚、仏壇を清めて灯火を掲げ、雑煮を出し、お屠蘇を飲んで祝うのです。雑煮は、三日、あるいは五日限りです。
お膳の向こうには、皿に裏白を敷き、その上に塩イワシを二、三匹ずつ乗せた「据わりイワシ」を置いておきます。来客の際は、まず「手掛けの台」を持ち出し、お屠蘇や雑煮を出します。お屠蘇の盃は、多くは土器(かわらけ)を使い、三方に裏白を敷いて、その上に重ねておくのが古式ゆかしいやりかたです。
「正月の挨拶」
「正月」
さぁ、新たな年が明けました。まずは「水」に力をいただくようです。「恵方」は、最近「恵方巻き」でポピュラーになりましたが、その年の歳徳神、年神さまがいる方角で、「明きの方」とも言われます。「若水」は、元旦の朝、年の初めに汲む水のことです。「手掛けの台」は、前回ご紹介した「ポータブル聖地」?とでもいうような飾りのこと。「正月」図の、訪問客の右手後方に見えています。
出島の商館長、メイランさんのレポートはこちら。
新年、これは日本人の間では最大の祭日で、はじめの六日間は松の内と呼ばれ、儀式張った行事を行うと同時に、楽しんで過ごす。とくに最初の三日間は、役人や友人・知己を訪問して、その幸運を祝福するために当てられる。
これは今もさほど変わらないのではないでしょうか。
「正月の使用人たち」
日ごろ働き詰めの人たちも、この日ばかりは羽根をのばして楽しそうです。
前の日に忙しかったお宅では、早起きもせず、眠たいお正月です。
商家は、前夜の取引で徹夜しているので、元旦はまだ夜中のようです。門を閉ざしてしまって、だれの挨拶も受けません。
最近、気分がボンヤリすることがあると、長崎の人たちは「元旦気分」と言い表したりするのですが、それはこの「商家の人が大晦日に徹夜した状態」に喩えているのです。
この日は、一年中使う道具たちの恩に報いるために、家財を休めます。お金も、一銭も出さないようにと慎み、物を買うことはしません。
家財道具を休めることは「器用の恩」と言います。お金も休めていたんですね。いまは元旦から初売りをするお店もあって、休む間もありません。
門松
裕福な商家では門松を立て並べたりもしますが、多くの家は質素を守り、松の枝を戸口の左右に打ち付けた「打ち付け松」を飾っています。しめ飾りはどの家も先祖からの作り方があり、根曳きの小松に竹を添えて、その左右に輪状の〆を掛けることもあれば、大きな〆を曲げて中に飾りをして家の門先や玄関などの上に掛けるものもあって、一様ではありません。門松は薪を束ねて根を固め、あるいは笹の葉で垣根を造り、または萩を揃えて根をかこって、左右の垣根にしたりもします。
しめ飾りは、包んだ米と塩、海老、橙、炭、昆布、串柿、裏白、ユズリハなどで作ります。
冬からこの月にかけては、夜分、誰ともわからない者が、かねてから憎らしく思っていた家の松飾りを引き下ろすという嫌がらせをしたりします。また、子どもたちなどが、柿や昆布などを狙って取ったりもするのですが、このどちらも、長崎のよろしからざる一面であります。
門松やしめ縄を飾ることは今でも行われていますが、「かねてから憎らしく思っていた家の松飾りを引き下ろすという嫌がらせ」って、相当な嫌がらせですね……。
これを聞くと、子供たちが柿や昆布を狙うのは、まだかわいく思えます。子供たちの様子も見てみましょう。この絵の家の前にあるのが、当時の門松です。
「正月の遊び」
子どもの遊び
三日。家々では暁に起きて、店先には葦の御簾または竹の簾を垂れ、みな賑やかに過ごします。子どもたちの遊びは、破魔弓、双六、猫貝、手まり、羽子板、紙打などです。貧しいものたちは、すぼ引、よせ、けし、かんきり、かうば、筋うちなどして楽しむものがありますが、これらは博打に似ていると言って、厳しく禁じる親もいます。
猫貝は、茂木や矢上などの近隣の浦より出る、小さくて丸い貝です。「のせはじき」「十五つかみ」「とんのみ」などの遊び方があります。 紙打は、互いに二三枚、または五六枚ずつの鼻紙を出し合わせ、積み重ねます。糸を付けた針を口に含み、紙めがけて打ち出して取り上げ、それが多いほうを勝ちとします。輪になって座った子どもたちが回りながらこれを打ち取り、勝負を決めます。
よせ 木を地面に立て、2、3間離れてコインを投げて、木に近いほうがち。
けし
地面に渦を描いて、これもまた投げたコインが中心に近いほうが勝ち。
かんきり
穴の前にひとつの筋を描き、これまた投げたコインが筋にかかると良い。
筋打
広馬場、または出島と呼びます。投げたコインがこれに乗りつつ、筋にかからないのが最高。
ねんがら
素材により「木ねん」「金ねん」とも呼びます。「たてば」「やりば」「づうかおう」「ちんかん」「くさらかし」などの遊びかたがあります。しかしこれはみんな、子どもたちの呼び名ですから、意味はよくわかりません。
ずいぶん詳しいレポート、そして挿絵も詳しく書かれているところに、文龍さんの子ども時代がしのばれます。「筋打」の「フィールド」に「出島」や「広馬場」という名前がついているのが、長崎らしくて面白いですね。(「広馬場」は唐人屋敷の「門前」です)
釘を使った遊びの様子は「人の一生」シリーズの一枚にも見ることができます。
「出産」
赤ん坊が生まれたお宅の外で、子供たちが釘を使って遊んでいます。この絵は「人の一生」を巻き物にしてあるバージョンで「一枚もの」のバージョンの「出産」には、遊んでいる子供たちは描かれていません。塀に向かっている子は、多分、用を足しているのでは……おいおい。
文龍さんは自分が遊ばなかったからか、詳しく書いていませんが、メイランさんは「婦人たちの楽しみ」として、「毬つき」を取り上げています。実際にチャレンジしたようで「この遊戯はきわめて簡単に見えるが、実は非常な器用さが必要である」と記しています。
お絵像さま
「永島キク刀自絵像」
長崎のお正月には「お絵像さま」という先祖の肖像を飾る習わしがありました。下の絵は、川原慶賀による「永島キク刀自像」です。万延元(一八六〇)年に記された落款に「七十五歳種美写」とあるので(『種美』は慶賀の諱)、慶賀の生年は天明六(一七八六)年と推定されています。これは何度か実物を見たことがありますが、着物の柄など、本当に細かく丁寧に描かれていますし、キク刀自(刀自とは、高齢女性の敬称です)さんのたたずまいたるや、目の前で足を崩そうものなら、ビシッと叱られそうな眼力!
ちなみに「長崎ものしり手帳」で知られる郷土史家の永島正一先生は、キク刀自さんのご子孫です。
寿ぎの人々
この月の間は、チャルメラを吹き、小銅鑼や片張りの太鼓で囃しながら、街の家々を訪ねる者たちがいます。家々からは、小銭の包み(その家の懐次第で、6~7文から14~5文くらい)を与えます。
以前、彼らは刀を持たず、古い袴を着ていましたので、役人たちの袴の着こなしが悪いと「チャルメラ吹きの袴」と言われてしまいます。ここ3~4年前くらいからは、羽織だけを着て廻っているので、そうみっともなくもなくなりました。
長崎ではチャルメラ吹きは免許制です。これは唐人が亡くなった時、遺体を寺に送るまでの途中で、チャルメラを吹いて付いていく人々が昔からいて、彼らがこの謝礼を、長崎会所を通して受け取るようになったからです。
「チャルメラ吹き」は、残念ながら慶賀さんの絵はありませんが、「長崎名勝図絵」には、たしかにずるずるとした着こなしの姿があります。そしてこういう「芸能」も、長崎では広義の貿易活動の一環に組み込まれていたのだとわかります。
ほかにも、二、三人組で編み笠をかぶり、家々の門に立ち寄って、歌を歌う「やわらやわら」や、女の子が黒い木綿で顔を覆って槌を振る「大黒舞」や、「松尽くし」などを歌う人、恵比須や大黒の格好をしてやってきて米を乞う人たちなど、様々な芸能民がやってきていました。あるいは盲僧などが川柳にお守り札を結びつけたものを家々に持ってきて、新年を寿ぐこともありました。これには、三~四銭を包んで渡していたそうです。
「大黒舞」
お母さん?の伴奏で女の子が踊って、お父さん?が米袋を持っています。
「正月」
「正月」の絵をもう一度見てみると、玄関の外にいる人も、この絵の女の子とよく似た動きをしていますので、大黒舞かと思われます。
正月の風物詩をもうひとつ。
正月二日には、小商いをしている人々が、商い初めということで、大人子どもに限らず、暁にかけてナマコを売り歩きます。その声は午前4時頃から大きくなるのですが、家々ではこれを買い整えて、朝のなますに加えます。値段の交渉はしません。彼らを家に呼び入れて器を出せば、ナマコを入れてくれるので、12文、または13文と、その年の月の数の通りに紙に包んで渡します。古来よりの長崎の風俗です。 長崎の人たちはナマコのことを「たわら(俵)子」と呼ぶのですが、それはその形が米俵に似ているところから来ています。二日を「商い初め」として、すべての担い売りの商人が「たわら子」を売るのは、売り買い双方が、みな米俵にまつわるものであること思ってのことです。
寄合・丸山両町の遊女屋では、出入りの魚屋たちが、毎年おめでたい習わしとして、夜、門を叩いてナマコを持ってくるので、祝儀として銭百文ずつを包んで与えるそうです。
お正月のナマコは、その年の生命力とでもいうべきものを体現するものでもあったようです。とは言え、珍味は珍味。私はこれを読んで、お正月の紅白なますにナマコを混ぜて食べてみたのですが、なかなかイケましたよ!
絵踏み
さて、長崎のお正月は、心躍ることばかりではありません。正月四日から、各町では「絵踏み」が始まります。(ここにも手かけの台がありますね!)
「踏み絵」
四日。この日より市中の踏絵が始まります。江戸町…(町名略)…都合十六町、絵板は12枚あります。町役人がとにかくすべての家々を回って、これを踏ませ、その都度、帳面に付けるのです。また「朝絵」「夕絵」と言うことがあります。大きな町では、絵板一枚踏ませて回るのに時間がかかるので、朝夕の区別があるのです。
「十二枚」とありますが、本来は二十枚(現在確認されているのは十九枚)ですし、他の日には「十九枚」などとあるので、ひょっとしたら、書き写し間違いかもしれません。(『長崎県史史料編』の底本は写本です。原本は虫食いなど傷みが激しいらしいです)
絵踏みについての文龍さんの筆は、由来も人々の様子も、自分の心情も書くことなく、わりと淡々としています。もっと書いてくれてもいいのになぁ、と思うのですが、あまり書きたくなかったのか、どうなのか。そのぶん、と言ってはなんですが、メイランさんが詳しく書いてくれています。
昔キリスト教が最も根を張っていた所、とくに長崎では、有名な踏絵の儀式が始まる。長崎で大抵8日間は取られる。どの町の住民はどの日と決められている。この式は、小児イエスを膝に抱いた処女マリアの像を彫った銅板を足で触れるのである。役人の立ち会いのもとに行われ、この役人がその詳しい手続きその他を決める。それを免除するものは一人もないし、いかなる口実をもってしても、誰もこれを免れることはできない。病人や懐に抱かれた幼児もそこに運ばれて、真っ直ぐに立つことのできない人には、踏絵板を足に圧しつけてこの式を済ませるのである。これについては、日本人の間では、物に足を当てることほど大きな軽蔑のしるしはないということを、知らねばならぬ。これはおよそ日本人のなし能う最大の侮蔑であり、従って日本人はどんな些細な物でも、足で触れることを極力注意して避ける。
そして「外国人も踏絵をさせられるという話があるが、そんなことはない。」ということに加え「真偽は不明」としながら、次のようなエピソードも記しています。真偽も、確かに重要かもしれませんが、こういう話がまことしやかに語られ、場合によっては信じられていた、ということも、また真実なのだと私は思います。
踏絵が始まって当座の間は、日本人はこのような銅板を一枚しか持たなかった。それでは日本の政策上、踏絵を行う必要があると思われる場所全部に、一時に使用するには不十分だというので、一人の芸術家が、そのために必要とされるだけの踏絵を模造する仕事を命ぜられた。芸術家は、現物と模造品のあいだに何らの区別も見出されぬくらい立派なものを作ったが、その彼がその褒美として報いられた所は、それ以後彼がキリシタンのために働くことを予防するために、将軍の命で首をはねられたということであった。
長崎の年中行事の中でも特別な意味を持つ踏絵。文龍さんが生きた時代は、禁教から200年近くが経っていましたので、切実な信仰をもって踏絵に臨んだ人は、もはや少なかったことでしょう。それでもあまり気持ちのいいものではなかったようで、古賀十二郎さんの「長崎市史風俗編」によれば、踏絵が終わったあとには「厄払い」と称した宴が開かれ、あらためてお正月を寿ぐかのような万歳までもが家々を回ってきたとあります。踏絵そのものにも様々な作法や言い伝えがあったようですが、文龍さんはとにかく書き残していないのです。ほかの行事の記しかたや、「子どもの遊び」の饒舌さを思えば、その記述はあまりに簡潔です。その真意はわかりませんが、ひとつ確かなことは、長崎に暮らした文龍さんは、生まれてから死ぬまで、毎年お正月に踏絵をしていたということです。いまの私たちには想像しようにもできない心情が揺らめいていたのでしょう。
慶賀さんの絵の中の人たちは、それが死に際するものであっても、なぜかみんな楽しげな顔をしているのですが、この「踏み絵」の人たち……特にいままさに絵に足をかけようとしている人の、憂に満ちた横顔は、見れば見るほど寂しげな複雑さを湛えているようです。
さらにメイランさんが2月の項で次のように書いているのも、なんだか、じわじわとしみてきます。
二月になると、日本人はキリスト教に対する憎悪に関係することをすべて忘れてしまって、専ら草や木の中に美しく芽生え始める自然の美に注意を向けるようになる。
〆おろし、七草
六日。家々では、しめ飾りを下ろして門松を片付けます。幸木の〆は、翌年まで外さずにおけば盗難を逃れるということが言い伝えられているので、そのまま置く家もあります。あるいは松飾りの橙を取って、床の下に投げ入れておいたり、橙を戸口の上やぬかみそにつけておくと、これまた盗賊に遭わないまじないだそうです。
片付けたしめ飾りや門松がどうなるかというと、またもやメイランさんが伝えてくれています。
新しい年の最初の六日が過ぎると、日本人は、去年の最後に最大の注意を払って建てたものを破棄する祭日をとり行う。家の前に建てた門は壊され、その木材は注意深く集められ、これに火をつけるのは子どもたちの仕事である。彼らはこれを神を喜ばせるところの捧げものと見て、そこから立ち上る煙と炎とは、新しい年の始めに当たって伝染病やその他の害をもたらすような悪気から空気を浄化してくれるものと考えている。
「鬼火焚き」
お正月の飾りを「破棄」したあとも、新しい年にまつわる行事はまだまだ続きます。
この日から近隣の子どもたちは、七草を取って売り歩きます。家々ではこれを煮て、午後3時ごろから恵方に向かい、「唐の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に」という決まった呪文を唱えながら、菜包丁の裏でまな板を叩きます。しきたりに厳しい古老がいるような家では、これを真面目に唱えるのですが、私などはつい笑ってしまいます。意味も諸説あるのですが、正確なところはわかりません。
七日。俗に七日正月と呼び、家々ではなますを作り、七草雑炊を煮て、神棚恵方棚仏壇などにお供えしてお祝いします。
メイランさんによれば「七種のいろいろな食用の草を混ぜた食べものを設けるが、これは一年中を通して悪い病気、ことに有毒の水にあたらぬように浄める力があるとされている。」とのこと。当時の日本人にしてみれば、当然すぎて書くにも及ばなかったことを、長崎に滞在していた西洋人がこうして書き残していてくれるのは、なんともありがたいことです。
一月の行事は、このあとも続きます。
小正月
十四日から十五日の夜までは、もぐら打ち。町の男の子たちは、門松に添えられていた竹を取っておいて、家々の門口にやってきて、踏み石を打ちます。掛け声は「もぐら打は科なし、ぼうの目、ぼうの目、祝うて三度、しゃんしゃんのしゃん」。そうして家に入り、お金をねだります。もしお金を渡さなければ、また帰りに踏み段を打ちます。その時は「打戻せ打ち戻せ、一まつぼう、二まつぼう、三まつぼう、四まつぼう、鬼子持て子持て」と言い捨てて、隣の家に行きます。
これはただ貧しい家の子供だけがするわけではありません。昔はお金をねだることもなく、ただ家々の踏み石を打って戯れとするだけでした。いま、家々に入ってお金をねだることは、世の中の悪い流れによるものなのでしょうか。長崎の良くない風俗です。
この日、子供たちは、市中の家々で下ろした注連縄を貰い受けて、諏訪神社の焼き場に担いでいってこれを焼きます。焼くときにはそれぞれ「鬼の骨、鬼の骨」と唱えます。
文龍さんの歳時記を読む限りでは、しめ縄などの飾りは、外すだけは六日に外しておいて、一月一五日の「小正月」に焼いたのでしょうか。それらを「鬼の骨」ということについては、いまも「オンノホネ」なる行事が行われている地域があります。(「もぐら打ち」は「長崎名勝図絵」に絵があります。)
一月の行事は、まだまだまだ、続くのですが、それは全文訳でお楽しみください。正月の全文訳、大変長いです!
次回は「節分」をご紹介します。お楽しみに!
「長崎歳時記」正月 全文訳
元日
家々では若水といって、夜明け前のまだ暗いころから恵方の水を汲んで湯を沸かし、お茶を淹れます(この朝『若水手拭』と言って、一年の手拭を新しく下ろします)。さらに神棚、恵方棚、仏壇を清めて灯火をかかげ、雑煮を出してお屠蘇を飲んで、祝います。
雑煮は、三が日、あるいは五日と限って食べます。
お膳の向こうには皿に裏白を敷いて、その上に塩イワシを二~三匹ずつ据え、これを「据わりイワシ」と呼びます。もし来客があれば、まず「手掛けの台(一二月参照)」を持ち出して前に置き、あるいはお屠蘇や雑煮を出すわけです。屠蘇の杯は、多くは土器(かわらけ)を使い、三方に裏白を敷いて、その上に重ねておくのが、古式ゆかしいやりかたです。
役付の家々の多くは門松を立て並べ、家の者はみな夜明け前には起きて、それぞれ新しい着物と上下を着け、午前六時頃より奉行所に行って挨拶をします。それから諏訪、松の森、伊勢の三社を回り、また、お世話になっている家へ、新年のお祝いに伺ったりします(二十一日に、家ごとに名札を置いておくのです)。
商家の中でも、裕福な家は門松を立て並べたりもしますが、多くの家は質素を守り「打ち付け松」といって、松の枝を戸口の左右に打ち付けて竹を立て添えて、しめ飾りをしています。しめ飾りはどれも、門松とおなじような感じです。とはいえ、どの家も先祖からの様式があって、根曳きの小松に竹を添えて、その左右に輪状の〆を掛けることもあれば、大きな〆を曲げて中に飾りをして家の門先や玄関などの上に掛けるのもあって、一様ではありません。門松は薪を束ねて根を固め、あるいは笹の葉で垣根を造り、または萩を揃えて根をかこって、左右の垣根にしたりもします。
しめ飾りは、包んだ米と塩、海老、橙、炭、昆布、串柿、裏白、ユズリハなどで作ります。冬からこの月にかけては、かねてから憎らしく思っていた家に、夜分、誰ともわからないものが松飾りを引き下ろしたりという嫌がらせをすることがあります。また、子どもたちが柿や昆布などを狙って取ったりもするのですが、このどちらも、長崎のよろしからざる一面です。
商家は、前夜の取引で徹夜しているので、元旦はまだ夜中のようです。門を閉ざしてしまって、だれの挨拶も受けません。
最近この街の人たちは、気分がボンヤリすることがあると、「元旦状態だ…」と言い表したりするのですが、これはこの「商家の人が徹夜した気分」に例えているのです。
この日は、一年中使う道具たちの恩に報いるということで、どの家も家財を使うことなく休めます。お金も、一銭も出さないように慎んで、物を買うことはしません。
正月の間は、チャルメラを吹き、小銅鑼や片張りの太鼓を持って囃し立て、街の家々を訪ねる者たちがいます。家々からは、小銭の包み(六~七文から一四~五文くらいまで、その家の懐次第です)を与えます。以前、チャルメラ吹きたちは刀を持たず、古い袴を着ていました。なので、役人たちの袴の着こなしが悪いと「チャルメラ吹きの袴」と言われてしまうのです。いつのころからか袴は着けなくなり、ここ三~四年前くらいからは、ただ羽織だけを着て廻っているので、そうみっともなくもなくなりました。
ただし、長崎ではチャルメラ吹きの家が決まっていて、勝手に吹いて廻ることは禁じられています。これは唐人が亡くなった時、遺体を寺に送るまでの途中では、昔からチャルメラを吹いてついていく専門家がいたのです。唐人が毎年これに出した謝礼金を、長崎会所を通して受け取っていました(置銀といって、年に銀百目ほど)。それで、役株ができたのだと古老から聞きました。
船江の非人たちが(船江とは、俗に杭原と呼ばれています)、二~三人ずつ一組になって、みんな編み笠をかぶり、家々の門に立ち寄って、歌を歌います。俗に「やわらやわら」と呼ぶのですが、ただしこれは歌の歌いだしの言葉です。また非人の女の子が黒い木綿で顔を覆って槌を振り、大黒舞や「松尽くし」などを歌ったり、恵比須大黒の格好をしてやってきては、米を乞うのです。
三ヶ日あるいは五ヶ日の間は、天秤、帳箱、搗臼などの家財道具、浴室やトイレなどに、夜、灯火をかかげます。
唐館では、唐人たちが部屋の額を新しく張り替えたり、船主や脇船頭、総代たちの部屋を、それぞれ赤い紙の名札を持って訪ね、お祝いを述べるのです。
丸山町、寄合町の遊女たちも、この朝は雑煮を食べ、それぞれが年の餅などを飾り、この夜は客を迎えることはしないそうです。この月の二十日まで、遊女屋の恵方棚にいろいろな衣装の裁ち切れや、金銀の紙で作った折り鶴などをあしらい、たくさんの餅を花柳に結びつけて飾り立てているのは、すばらしく美しいものです。それなので、夜になると「恵方棚見物」といって、街の人々がたくさん訪れるのです。
二日
市中では元旦とおなじような挨拶が交わされます。また小商いをしている人々は、商い初めということで、大人子どもに限らず、暁にかけてナマコを売り歩きます。その声は午前四時ごろから大きくなるのですが、家々ではこれを買い整えて、この朝のなますに加えます。値段の交渉はせず、(ナマコ売りを)家に呼び入れて器を出せば、入れてくれます。買う人は、十二文、または十三文と、その年の月の数の通りに紙に包んで渡します。これは、古来よりの長崎の風俗なのです。
ただし長崎の人たちはナマコのことを、多く「たわら(俵)子」と呼ぶのですが、それはその形が米俵に似ているところから名付けているのです。ゆえに、二日を商い初めといって、すべての担い売りの商人が「たわら子」を売るのは、売り買い双方が、みな米俵にまつわるものであること思ってのことです。
寄合・丸山両町の遊女屋へは、常日頃出入りしている魚屋たちが、毎年おめでたい習わしとして、夜、門を叩いてナマコを持ってくるので、祝儀として銭百文ずつを包んで与えるそうです。
家々では暁に起きて、店先には葦の御簾または竹の簾を垂れ、みな賑やかに過ごします。子どもたちの遊びとしては、破魔弓、双六、猫貝、手鞠、羽子板、紙打などです。貧しいものたちは、すぼ引、よせ、けし、かんきり、かうば、筋うちなどして楽しむものがありますが、これらは博打に似ていると言って、これを厳しく禁ずる親もいます。
唐館では古来より「水かけ」ということがあります。船の「火の元番」たちが、冬から踊りを練習しておいて、早朝から笛や太鼓、銅鑼を叩き、土神堂や関帝堂、その他、唐人の部屋の前で踊ります。踊りは風流や今様の踊りなど、毎年おなじというわけではありません。この時、船の船主、財副、惣管といった人たちが、思い思いに遊女と一緒に出てきてこれを見物している様子は、長崎ならではの奇観と言えるでしょう。
唐館の船頭の部屋の多くは、多くが二階の隅にあり、外向きに「かけ」を作って、これを「露台」と呼びます。見物のときや涼むときなどは、この台に毛氈を敷き並べ、椅子を立て、寄りかかって眺めるのです。また「火の元番」というのは、入港した唐人たちが上陸した日から、館内の水汲みをはじめとする下働きとして、唐人屋敷乙名のほうより一人、唐人番より一人、宿町より一人、全部で三人ずつ、その船が出港するまで唐館に派遣される人のことです。これを通常「部屋付」と呼びます。
三日
年始の挨拶は元旦とおなじ。
盲僧などが川柳にお守り札を結びつけたものを家々に持ってきて、新年を寿ぐことがあります。その時は、三~四銭を包んで渡します。川柳は俗に猫花柳と言います。
町年寄の踏絵があります。
四日
奉行所、寺社の礼。大音寺(浄土宗)、大徳寺(真言宗)、本蓮寺(法華宗)、青木陸奥(大宮司・諏訪社神主)、同虎丸(左京亮・大宮司の伜)、青木西市(近江介・西山郷妙見社神主)、光栄寺(東一向宗院家)、正覚寺(西一向宗)、安禅寺(天台宗・東照宮)、そのほか神職、出家の人々が、それぞれの装束で順列を正して挨拶に訪れます。
これが済めば、市中の檀家や俗縁の家々を訪れて、お守りの札に水引や杉の楊枝などを添え、また、納豆を曲げに入れて配ることもあります。昔から、延命寺のお坊さんは金山寺味噌というものを配ります。これは中国の金山寺から伝わったとされ、家々ではこれを珍味として喜びます。
市中の踏絵が始まります。江戸町、大黒町、今魚町、東浜町、本博多町、島原町、磨屋町、新橋町、大村町、樺島町、榎津町、新石灰町、今町、榎津町、袋町、本籠町。都合十六町、絵板は一二枚あります。町役人がすべての家々を回って絵を踏ませ、そのつど、帳面に付け、印を押して宗門改めの記録とします。また、朝絵、夕絵と言うことがあります。大きな町では、絵板一枚踏ませて回るのに時間がかかるので、朝夕の区別があるのです。以降の日も、すべておなじようにします。
五日
奉行所へ皓台寺(禅宗)が挨拶に行きます。皓台寺は以前大音寺と順番の争いがあったので、ふたつの寺の挨拶は別々に受けるようになりました。
本五島町、浦五島町、南馬町、八幡町、掘町、豊後町、本興善町、新町、内中町、小川町、油屋町、東古川町、上筑後町、炉粕町、船大工町、八百屋町、酒屋町、北馬町、引地町の踏絵です。
踏絵の板は十枚で、十九ヶ町の町役人たちが付き添って廻ることは、四日とおなじです。
帯刀組やお役所付きの唐人番、町使、散使の家の踏絵もこの日にあります。これにその組の触頭などが付き添い回って改めることは町家のようです。
六日
町の家々では、〆飾りを下ろして門松を片付けます。十四日のところもあります。ただし、幸木の〆は、翌年の飾りまで外さずにおけば、その年の盗難を逃れるということが言い伝えられているので、そのまま置く家もあります。あるいは松飾りの橙を取って、床の下に投げ入れておいたり、橙を戸口の上やぬかみそにつけておくと、これまた盗賊に遭わないまじないと言われていますが、家によって違います。また、このころから子どもたちは、イカを揚げて遊びます。
伊勢町、中紺屋町、桶屋町、本大工町、本下町、今下町、勝山町、今紺屋町、出来鍛冶屋町、今鍛冶屋町、本紺屋町、西古川町、下筑後町、西中町、諏訪町、今石灰町、後興善町、新興善町、東築町の踏絵。
右の十九町、絵板は十九枚。
この日から近隣の子どもたちは、七草を取って売り歩きます。家々ではこれを煮て、まな板の上に揃えておき、そのかたわらに火箸、飯杓子、すりこぎ、菜包丁、せつかひ、金杓子、火吹き竹の七種を乗せて、午後三時ごろから恵方に向かって、菜包丁の裏でまな板を叩きます。これを叩く拍子があるのですが、うまく書き表せません。実は、一刻ごとに叩いて暁に至るというのが昔からの習わしなのですが、人々はもはや怠けてしまって、夜通しこれを叩くなんて人はまれです。また「唐の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に」という決まった呪文があり、これを唱えながら叩きます。ある人が言うには「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬうちに」ということだったのが、間違って伝わっているそうです。しきたりに厳しい古老がいる家はこれを真面目に唱えるのですが、つい笑ってしまいます。ある本には、この日に唐土より鬼車という悪い鳥が渡ってくるので、家々では門を閉じて灯火を消し、これを払っているのだとありました。七草を叩く時にあの呪文を唱えるのは、この鬼車の鳥を忌む気持ちからなのだというのです。また唐土の鳥とはツバメを差しているという節もあります。ただし、老婆や婦女に伝わっている説ですので、その証拠はありませんし、これがどういう意味なのかはわかりません。
七日
俗に七日正月と呼び、家々ではなますを作り、七草雑炊を煮て、神棚、恵方棚、仏壇などにお供えをして、お祝いします。
恵美須町、桜町、西築町、西浜町、金屋町、東上町、麹屋町、銀屋町、本古川町、本紙屋町、大幸町、西上町、古町、出来大工町、外浦町、平戸町。
全部で十六町、絵板は十枚。
この夜、本蓮寺下の船津浦の男女たちは、家に集まって「番神ごもり」をします。宵のうちから各々声を揃えて題目を唱え、夜半過ぎればみんな酒を飲んで様々な余興を披露し、夜が更けるまで題目を唱え、夜が開ければ家々の〆縄を浜に持ち出して焼きます。これを鬼火と言います。また、五月に籠ることもあったり、不定期に行われているようです。
八日
今博多町、材木町、東中町、新大工町、万屋町、本石灰町、今籠町の絵踏み。絵板は七枚。
丸山・寄合両町の踏絵は、遊女たちが美麗を尽くして行うので、以前は市中の遊び人たちが変装して顔を隠して見物に出かけたものですが、あるとき群衆の者たちが町役人と口論になって以来、見物人がやや減ったようです。
九日
松囃子といって、以前は諏訪神社で能がありました。今はその儀礼だけが残って、能太夫または社家、社用人たちが拝殿に幕を張って囃子をしています。年によっては舞をすることもあります。
銅座跡の踏絵。銅座跡は以前銭を鋳造していたところで、現在は人家が建っていて、築町に続いています。町の乙名から二名ずつ係を務めます。
唐館の部屋付きの者たち(火の元番)が、唐館の乙名部屋で踏絵をします。絵板は部屋付き担当の町から、役人が付き添って持ってきます。
十日
俗に十日恵美須といって、商家では恵美須棚へお神酒を供え、互いに訪問しあってお祝いします。
丸山・寄合両町の遊女屋では、遊女たちが集まってお酒を飲んで大騒ぎします。郭もこれを許して制することはありません。また、年季が明ける遊女は、この日に暇乞いの杯をすることがしきたりです。
御船頭、武具預かりの者たち、その家の者たちの踏絵があります。代官の手代が、見届けに付いて回ります。以前は十一日にありました。
一一日
鏡開き。市中の家々では、神棚仏壇その他家財などに供えた鏡餅を下ろして善哉餅とします。またこの日は「帳祝い」といって、商家などでは新たに帳面を仕立て、表題などを付けて祝います。
荒神棚の餅は、多くが十五日、または二十八日に下ろします。いずれも家々のしきたりがあります。
夜分女中礼が始まります。婦人たちはそれぞれにおしゃれを尽くし、召使いには箱提灯を灯させ、おともを引きつれて親類縁者、近所の家々を回って新年の挨拶をします。下女は包んだお茶を入れた硯の蓋に、いろいろなふくさを持たせて、行く家ごとに渡します。また「とし玉」といって、紅粉茶碗、白粉、鬢つけ、元結い、洗い粉、刻みたばこ、手まり、筆紙墨などを、子どもがある家々にはそれぞれに見合うようなものをお茶に添えて贈りあうことがあります。これは常日頃から特に仲良くしている人だけに贈ります。また、この行事は、既婚者に限ることで、娘が出ることはありません。もし既婚者でもなにか差し障りがあって出ない人は、月の末に下女にお茶だけを持たせて使いに出します。あるいは冬の間に新婦をめとった家では、この月を待って、姑が嫁を引き連れてまわります。
市中の男子たちは、夜に女中礼を見ると、だれもかれもが松の葉を持って召使いの髪に打ちかけて、いやがるのを喜びます。
六、七日の夜より回る婦人たちもいますが、これはまれです。
(茶を包む図)
新婦の茶は、包みの右上に切り熨斗を用いることがある。上包みは、多く杉原紙を二枚重ねたもの。紅で落ち松葉、海老、梅の花、折り鶴、三ツ星などの絵型を描く。お茶はこの中に小包にして入れる。
一三日
三ヶ村の踏絵が始まります。三ヶ村とは、お代官高木作右衛門の支配する所で、長崎、浦上、山里(含む淵)の各村があります。野母村、高浜村、川原村、茂木村、日見村、古賀村、樺島村の七つの村は、そのあと追々に踏絵があり、お代官の下役たちが巡回します。
一四日
奉行所や岩原屋敷、代官所、その他諸侯の蔵屋敷などでは、門戸や玄関の上に削りかけを吊ったり、鬼木を立てたりします。ただし市中では、役付の家でもこれはしません。
この夜より一五日の夜までは、もぐら打ちといって、町の男の子たちは、門松に添えられていた竹を取っておいて、図(31頁参照)のように作り、家々の門口にやってきては、踏み石を打ちます。(踏み石は俗に『ぎんば』と言いますが、方言でしょう)その時は「もぐら打ちは科なし、ぼうの目、ぼうの目、祝うて三度、しゃんしゃんのしゃん」と言って打ちやめ、家に入り、お金をねだります。もしお金を渡さなければ、また帰りに踏み段を打ち、「打戻せ打ち戻せ、一まつぼう、二まつぼう、三まつぼう、四まつぼう、鬼子持て子持て」と言い捨てて、またその隣の家に行くのです。
ただし、これはただ貧しい家の子供だけがするわけではなく、ゆえに昔はお金をねだることもなく、ただ家々の「ぎんば」を打って戯れとするだけでした。いま、家々に入ってお金をねだることは、世の中の悪い流れによるものなのか、あるいは長崎の風俗の良くないところでありましょう。
この日、子供たちは、市中の家々で下ろした〆縄を貰い受けて、諏訪神社の焼き場に担いでいってこれを焼きます。焼くときにはそれぞれ「鬼の骨、鬼の骨」と唱えます。
丸山、寄合の遊女屋でも「〆おろし」といって祝日に定められており、遊女たちはお客を迎えて、とても賑わいます。
おなじ日、長崎から一里ほど西にある小瀬戸という浦で「尻たたき」ということがあります。姑が新婦を引き連れて、親類縁者の家を回るのですが、道の途中には老若の男たちが鬼木を持って集まっていて、新婦の尻を叩こうとするのです。新婦ほうでは、ご祝儀として団子をこしらえ、酒の肴を整えておいて、彼らを招きます。新婦がやってきた家では、正月十四日にするのが古式だそうです。
一五日
役人たちは、朝七時ごろから奉行所に行き、良き日を祝います。(※以下『佳日を拝す』『節を拝す』は、これと同様の行事です)
家々ではなますを作り、小豆のお粥に餅を入れて煮、神前や仏前などに供え、またこのお粥で門戸や家の柱の所々にお札を貼ります。また、多くの荒神の前の大釜の上に供えていた、三つ重ねの大鏡餅を下ろします。
あるいは二八日になるのを待って、小餅の鏡と引き換えて下ろす家もあります。
この夜、福濟寺(下筑後町の山手にある漳州寺)の観音堂で「ろうそく替え」という行事があります。俗に「しょんがん」「しょむがん」と言います。これは「じゅんぐかん」という中国語が転じたもので「じゅんぐわん」は「上元」であると言います。その作法は、日暮れごろより、お堂の仏様の前のロウソク立てに、唐ロウソク数千本を立てて火を灯しておきます。市中から参詣にやってきた人たちは、自分で和ロウソクを持ってきておいて、手前から、唐ロウソクと立て替えます。次々にやってくる参詣の人たちが、元々のロウソクと新しいロウソクを引き換えて持ち帰る様子は、まるでロウソクが階段を上っていくようです。これは何のためなのかというと、この夜、お寺ではお経が上げられ、仏前にロウソクが灯されているので、もし家に病人などあるならば、枕の上にこれをかかげることで、ご祈祷になるというのです。ゆえに、昔から参詣する人同士、肩がぶつかりあうくらい競って替えるというのですが、これが中国の風習であるのかどうなのかはよくわかりません。ただし午後五時ごろに始まって、夜の九時くらいまでには終わります。お堂の中では、お坊さんが銅鑼や「ケイ」を打ちならしています。
夕方から、長崎の近郊では、竹を焼き、それが「はくひつ」と音がするとき、子供たちは同時に「鬼の骨」と唱えます。これより俗に「鬼火」とも呼びます。思うに、我が国で広く行われている「さぎちょう」というものでしょう。あるいは「三几張」とも書きます。これは昔から、市中では行われていません。
唐館では「蛇おどり」があります。唐人たちがハリボテの大きな蛇を作り、夜になってその体内に灯を灯して、館内をぐねぐねと回るのです。船主や財副の部屋では、露台に毛氈を敷いて、数十の灯をつけて賑わいます。市中の女子供たちは、稲荷岳の小島郷(館内の上、長崎の町の南のほう)の山手にのぼってこれを見物します。これまた毎年のことです。
一六日
諏訪神社では、百手の神事ということがあります。社記を見て考えると、これは門戸におられる神、クシイワマトノミコト、トヨイワマトノミコトのお祭りでありましょう。(この二神は、俗に矢大臣、または矢五郎さまと称します)毎年この日、礼を尽くしてこの神様を祭るのです。お供えは白羽の矢を二百、黄白の餅を二百、お神酒を二瓶、これを本殿の内陣にお供えし、社人たちは祈りを捧げ、神楽を舞う二人が弓矢を持って矢大臣の前に行き、左右に拝して湯立て場に行って的を立て、左右それぞれに射るのです。この行事が済んだのち、神宝蔵の前後の窓から百手の矢を投げ出しますと、参詣した男たちが群れ集まって争い取ります。これを名付けて「矢ばかい(『はかい』は方言)」と言います。取った矢はそれぞれの家に持ち帰って神棚に納めれば、一年の邪気を払うと言います。それから神主の家では、若餅百個が玄関より撒かれます。これをまた、参詣の人々が争い取って、お神酒(甘酒を器に入れておいて、ひしゃくを添えておきます)も我先にと頂戴するのです。言い伝えでは、この餅を取った人は、一年の幸せを得るそうです。餅の異名が「福」というところから起こっているのかもしれません。
注:矢は粗櫛(あらぐし)を割って、羽根型の紙を挟んで作ります。
薮入りと言って、奉公人たちはその主人に暇を乞い、故郷の家に帰ります。また、市中の下流のものたちは、男女が集まってお金を出し合い、宴会をし、歌って踊って三味線など弾いて楽しんだりもします。
一九日
諏訪社で清祓いの神事があります。社記を見るところ、これは疫神のお祭りだそうです。夜に入ってから行われます。もともとこのお祓いは、吉田(神道)の疫神祭りの清祓いの作法にならって勤めます。明暦年間(一六五五-一六五七)より、毎年の節分の夜に大祓をするのですが、これを除夜の大祓、あるいは年越しの神事というような行法、清祓いとおなじように、節分の夜から中門の渡り殿の前に八角型の塚を建てて、ヤツデの注連縄をひき、榊を立てます。これを疫神塚、また疫塚と呼びます。中央にお祓いの棚を作り、左右に高机を据えて、机それぞれに幣帛を立てます。また様々の供物があり、行事のあいだはかがり火を焚いて、本座、縁座、三段の行法、八方拝などの品があります。ただし疫塚を建てるのは節分の夜から正月十九日までの間です。(以下、節分の項へ)
二十日
俗に二十日正月といって、家々ではなますを作り、餅のくずを赤飯にして、神棚、荒神棚などにお供えします。「煮込み」といって、身分に関わらず、前の夜から「幸木」のブリの骨や頭、大根、ごぼうなどを取り混ぜて煮て、この日の珍味とします。(大豆は節分の夜の豆をとっておいて、これを入れます)もし来客があれば、まずこれを出してお祝いするのです。
ただし婦女子が言うところでは、煮込みはこの月の魚や野菜の切りくずを取り集め、食べものを無駄にしないようにということを、恵比寿神さまの戒めとして昔から伝えているとのこと。また、この日の煮込みは銘々が腰に箸を差して七カ所を回る…すなわち七つの場所で食べると良いと言うのです。ゆえに、近郊の人々で、初めて市中奉公に出て来た者があれば、家の娘たちが集まってそそのかしておき、家の主人の親類縁者のところへ箸を差して行かせたりして、笑い者にします。しかしいまどきの人々はだれも彼も知恵がついてしまっているので、騙される人は百人のうちの一人、二人でしょうか。
この日をまた、二十日恵美須ともいって、稲佐郷(代官支配地、淵村)の恵美須社へ参詣することもあります。以前は市中の老若男女が小舟を浮かべ、あるいは数十艘の屋形船で、思い思いに遊女などを連れて楽しんでお参りしていたものですが、十七、八年前に、遊女町の出口の船大工町で、悪たれどもが両町の者と口論しはじめ、遊女たちが通行することを差し控えるようになってから、市中からの参詣も衰えました。それから現在に至ったままで、遊女を連れた船もありますが、昔に比べると物の数になりません。いまはただ、信心深い商家の人たちだけが集まります。
この日も「紋日」として、両町の遊女たちは競って客を迎え、昼も夜も賑わいます。町の人の中には、夜、踊りながら花街に出かける者もいます。
二五~六日
この日ごろは、特に町々の西国巡礼者たちが出発する日として、いずれも巡礼の歌を唱えながら市中を回り、家々より米を貰うことは、まるで修行者のようです。町の知り合いの男子はみんな、晴れ着を着て列を整え、巡礼に行く人の後に付き、おなじようにご詠歌を唱えます。旅立つ人たちは、この付き添いの者たちが多いほど良く、女の人たちも負けじと衣装を借りてきては、分不相応のおしゃれを尽くして桜馬場(町の東のはずれにあって、日見村に至る道)の八幡社のあたりの茶屋で送るのです。いずれもひとつの町ごとに酒や魚、ごちそういろいろを持ってきて、別れの杯を交わします。以前はこの見送りの帰りに、両馬町(北馬町、南馬町…ひとつの町を、左右で南北に分けています)の通りでは、三味線、太鼓、笛でさまざまな芸を披露し、旅立った人の家で騒いでいたのですが、ご改正(寛政の改革?)のあとは質素を旨とし、それはやや静まっています。
二九日
この夜は、座頭瞽女の人々が「籠り講」として、諏訪神社の拝殿に集まり、夜を徹して三味線と琴を弾いて神前に手向けます。市中の老若男女でこれをたしなむ人たちは、それぞれに酒や肴を持ってきて、これを聞いて楽しむのです。
(正月、五月、九月にあるようです)
この月の初めの辰の日には「辰の水」といって、一人が塩田子に塩を入れて屋根に上がり、「辰の水 辰の水 辰の水」と三遍となえて、持っている塩を屋根の棟に打ちます。このまじないをする人は、この年の火の難を逃れるというのですが、すべての家でしているわけでもありません。