愛について考える。
「アンタ、そこに愛はあるんか。」
強めの問いかけで締められるCM様々なところで目にする。
仕事で関わっている小学生に「愛ってどういうこと?」と聞かれたことがあった。
愛ってなんだろう。
人を愛する、愛し合う、愛着、愛情。
人は愛し合って結婚するし、愛し合う2人の間に生まれた子どもを愛の結晶なんて言ったりする。
では、愛は全て目に見える形で表現出来るものなのだろうか。
愛の結晶は子どもと言う形で表れている。
生まれた子どもに、愛をもって名前をつける。
でも、育てる中で愛を形あるものとして表せることばかりでは無いはずだ。
愛着というものがある。
子どもは身近な大人、つまり両親と愛着関係を築いて、徐々に外の世界に探求を広げていくとされている。
親子、きょうだい、友人、師弟…
色んな関係性はあれど、愛を持って接することが無意識下で求められている。
関係性の中で、どんな時に愛を感じるかはそれぞれだ。
愛が無いと人は育っていかないのだ。
「愛してるわ、ダーリン♡」
なんてよく聞くセリフはベタベタもいいところ。
言葉で表現するよりも、行動で示せと言われる場合が多いかもしれない。
愛を伝える行動は何なのか。
親子(母子)の場合、お腹に宿ったその日から、自らの1部として大切にする。それはすなわち愛ではないか。
産まれてきたら当然何も出来ない赤子を世話し、時には言葉は分からないだろうに、優しく話しかける。
それも大きな愛ではないだろうか。
では優しさだけが愛なのか。
危ないことをしたら、悪いことをしたら叱る。
それも『人に迷惑をかけて欲しくない』『危ないことはしないで欲しい。心配』といった意味がある愛と言えるだろう。
こんなことがあった。
好きなケーキを食べようとしていた子がふと、私の分が無いことに気づいて「半分こしよう」と言ってきてくれた。
もちろん私は大人なので「大丈夫だよ」と返した。
それでもその子は半分こを望み、一緒に食べた。
大好きなケーキを半分しか食べられなかったのに満足した顔で。
そんな話をふと母にした。
私自身も幼少期に同じようなことがあったとか。
買ってきたイチゴを、子どもだけで分けたところ、母の分が無いことに気づいた私が4つしかないイチゴの2つを母に食べさせたのだとか。
両方愛じゃないか。
つらつらと書いてきたが結論、愛とは目に見えないものであることが前提の、その人に対する願いや思い、優しさといったところではないかと考える。
つまり以下に相手のことを考えられるかだと。
いちばん身近な愛とは、大好きな物を半分こしたい事。
30歳の今日この日の結論はこういうことにしておく。
何年か後には変わっているかも知れないが、それはそれで楽しみである。