無限にまつわる知の歴史を旅する 〜サイエンス夜話 ゲーデルの不完全性定理編 イベントレポート〜
こんにちは、ミテモの高橋昌紀です。
11月20日(火)の夜に開催された「サイエンス夜話 第五夜 誰もついてこれないゲーデルの不完全性定理編」というイベントに参加してきました。
その様子をお届けします。
サイエンス夜話とは、ミテモの乾善彦さんが、「平日仕事終わってから、サイエンスについて真剣に学べるような場があれば、楽しそう。」という思いつきから立ち上げたシリーズ企画です。
今回の水先案内人は、大学時代に数学を専攻し、今は漫画家としてミテモで活躍中の眞蔵修平さんです。
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【読了時間: 10分】
(文字数: 3,500文字)
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さて、先に申し上げておきます。
今回のサイエンス夜話で眞蔵さんが語ってくださった内容の数学的意味を、私がどれだけ理解できたかといいますと。正直、あまり理解しきれませんでした。
ですので、以下に書くことは、イベントのレポートではありますが、数学の議論に踏み込んだものではありません。
眞蔵さんの話を聞いているときには意味を理解できているような気がしていたのですが、いま改めて他者にその中身を説明してくださいと言われると、それはできませんでした。
「話を聞いてなんとなく理解した気になること」と「他者に説明できるレベルで理解できること」の間には、とてつもない距離があるという真理に気付かされました(汗)。
前置きが長くなりましたが、イベントの様子をお伝えいたします。
今回のテーマは「ゲーデルの不完全性定理」です。しかし、ゲーデルの不完全性定理の話だけを聞いても、その歴史的インパクトを正しく認識することが難しい。ということで、その定理が導き出される経緯となった「無限集合論」についての数学者たちの議論、その歴史を学ぶレクチャーが、この日のメインとなりました。
まずは眞蔵さんの自己紹介と、参加者たちの数学に関する知識状態の確認です。
10名ほどの参加者のうち、ひとりだけ数学専攻で修士課程を修了されていた方がいました。逆にいうと、ほとんどの参加者は、遠い昔に高校数学を学んで以来、数年から人によっては十数年にわたって数学から遠ざかっている状態。私も、その一人でした。
もちろん、眞蔵さんは、参加者の知識がその程度であるという前提で話してくれました。
専門的な話をするときは初学者に話をするほうが、専門用語や概念の前提が共有されないため、話者としては組み立てが難しくなるものです。
先に言ってしまうと、この日の眞蔵さんのレクチャーのデザインは、非常に素晴らしかったのです。何が素晴らしかったかは、もうちょっと後で触れます。
続いては、イントロダクションとして、「無限とは何か」を考えてみることになりました。
要点としては、数学者たちの間でも、無限に対しての考えが「実無限派」と「可能無限派」の2つに分かれていて、決着がついていない、ということでした。
眞蔵さんの資料に書かれていた言葉を借りると、前者の実無限派は「無限を完結したものとして取り扱い、すべての実数は数直線上における」というもの。後者の可能無限派は、「無限の可能性のみがあり、どこまでも完結しない」というもの。
数学者たちの議論の歴史を紐解くと、古代ギリシアのアリストテレスの頃から、後者の可能無限派が優勢だったそうです。しかし近代になってゲオルク・カントールという人が無限集合論を提示し、実無限派が優勢になるというように変わったとのこと。
...すみません、そろそろ私の理解では説明が苦しくなってきました(^^;)。数学の議論の歴史は、以下に要点だけに書きます。わからない用語はぜひ調べてみてください。
カントールは無限集合論として「すべての集合の集合」について考えました。そこに出てきた矛盾は、カントールのパラドクスと呼ばれたのですが、カントール自身はあまり矛盾を気にしませんでした。
しかし、バートランド・ラッセルという哲学者が、カントールの集合論の決定的な矛盾を見つけ出します。ラッセルの指摘により、無限集合論の矛盾が明らかになり(ラッセルのパラドクス)、可能無限派の反撃がはじまりました。
その中で、ラッセルのパラドクスを可能無限で克服することができないか?という動きがありました。ダフィット・ヒルベルトという数学者が、「公理系で有限の立場からメタ数学を作って、無矛盾で完全な無限集合論を打ち立てる」ことに挑戦しようとしました。これをヒルベルト・プログラムといいます。
しかし1931年、今回の主役?のクルト・ゲーデルが、不完全性定理を発表し、ヒルベルト・プログラムが不可能ということを示してしまったのです。
以上が私の理解による、無限集合論の歴史の概要ですが、正直ここだけ読んでも、何がおもしろかったのか、全然伝わらないと思います。
しかし、サイエンス夜話の中では、眞蔵さんが、数学知識がない人でも想像がつくような事例を出しながら、具体的な物語として語ってくれるので、なんとか議論の中身を理解したくなるし、実際に理解できているような気持ちになるのです。
難解な数式を使わず、図とシンプルなグラフをメインにして、参加者との対話の中で数学的議論の面白みを伝えていくのです。この対話的な学びをデザインされているのが、眞蔵さんの水先案内人としての素晴らしさだなぁとしみじみ感じました。
かつて数学教師として、数学が苦手だったり興味をわかせることが難しかったりする生徒たちに、きっと様々な「興味のフック」をつくるように、数学の面白さが伝わるように、創意工夫を凝らしていたのではないかと想像しました。
なお、参加者たちが、眞蔵さんの数学の話にどういうリアクションを見せていたかといいますと。
いやはや、皆さん食いつき方がすごかった!
1分ごとに質問が出てきて、なかなか眞蔵さんの話が進まないほどでした(笑)。
私は、そこに参加し、また他の参加者の様子を観察していて、思うことがありました。
「わかりますか?」と眞蔵さんの出す問いかけに対して、真剣な表情で「わかりません」と言い切る参加者たち。その答えを起点に、また対話が盛り上がっていきます。
この対等な関係こそが、学びの対話を活性化するうえで、極めて大事なのではないか、ということです。
たとえば学校の教室や多くの社会人向けセミナーでは、「知識をもっている教師・講師」が「知識を持っていない生徒・聴講者」に一方的に知識を注入する、という構図になりがちです。また知識の大小による関係の認識は、そこに「立場の上下」の関係性を生み出してしまうこともあります。
でも、上下の関係になってしまっては、決して対話は成立しない。大事なのは、専門知識や経験の有無を関係の上下と同一視せず、学びの空間における相互作用に集中して楽しむこと。
それによって初めて、心から楽しめる学びの場が生まれるのではないでしょうか。
今回の参加者の中には、数学が好きではなかった、と言い切る人もいました。また、私もそうですが、結局のところゲーデルの不完全性定理がなんなのかということは、よくわからないままで家に帰ったひとが多かったと思います。
でも確かに、サイエンス夜話の2時間のあいだ、私たちは無限集合論の歴史をめぐる知的な旅を、眞蔵さんの案内で楽しんだのです。オープンで、知に対する熱が詰まった対話を通して。
決して数学に対する造詣が深くなくても、数学というかたちで人類が築いてきた知の創造と深化の歴史を、感じ取ることができるのです。
素敵な旅の案内をしてくれた眞蔵さんに、改めて感謝をお伝えします。
最後に、質疑応答の時間の中で、参加者と眞蔵さんの印象的なやりとりがあったので、それを紹介して終わりにします。
ーーーたとえば中学校や高校で数学を学ぶということは、公式を学んでそれをどう当てはめるかだと感じます。そこで公式を知ることは、武器を手にすることに例えられると思っています。一方、今日の話に出てきた、定理の発見は、武器それ自体の錬成と例えられるかなと思いました。当の数学者たちは、そういった探求をどう捉えているんでしょうね?
眞蔵「数学を学んで探求していくことは、実はアートや音楽のそれに近いと思います。たとえば楽器の弾き方を覚えて、演奏できるようになると、今度は新しいジャンルを作りたくなってくるわけです。そして新しいジャンルを作るということは、歴史に名が残るわけです。
数学の場合でいうと、"武器"を使って、まだ誰も示せていないことを証明していく。それに成功することは、これまでの人類が到達できなかった領域を広げることです。そこに魅力があるわけです。
そして数学の場合は、一度証明されたことは永遠に変わらないんです。証明したら、その人の名前が残るんです。宇宙が滅亡するまで。」
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次回のサイエンス夜話はどんなテーマが取り上げられるのか?
皆様どうぞお楽しみに。
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