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全然キラキラしていないアメリカ 書評 J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』

カネでもモノでもない 社会的資本の相続

 J.D.ヴァンスは就職活動時、希望先の役員とディナーを共にするとき、フルコースでのフォークとナイフの使い方を知らず、困ったという。緊張しながら役員と接し、頭をフル回転させながら会話し、おまけに食事の仕方にまで気を回さなければならないのは、えらく損だ。もし小さなときから高級レストランに行く余裕が親にあったらテーブルマナーで緊張することはなく、もし親が役員と友人で、すでに面識があったならばリラックスしてディナーに臨むことができただろう。こうした育ちの違いが採用の結果を分けることもある。
 会食で堂々とふるまえるマナーを身に着けることや、面接する役員とつながっていることは、カネでもモノでもないが、無形の社会的資本だ。

 私の兄が参議院議員になって野党から自民党に入った時、自民党重鎮や大先輩の議員から「ほぉー、きみはミッチーの孫か」、「おれはミッチー先生に~~」なんて昔話を聞いたりして、外様の1期生のくせにずいぶん得をしているシーンがあった。かくいう私も区議会に挑戦する時、あるいは議員になった後も伯父や祖父の話をずいぶん人から聞いたし、私自身もした。私は三世議員だけど、祖父や伯父とは選挙区も違って、「地盤」も「看板」も「カバン」も世襲していないと思っていたが、こんな無形の社会的資本はばっちり相続している。

 ところで、慶應幼稚舎には「何代続けて幼稚舎です」みたいな家庭がクラスに何人かいて、そういうエスタブリッシュメントたちは、慶應出身者のことを本当によく知っている。評議員のAさんはBさんと同級生で、Aさんの息子はCさんの息子と同級生なんだよね、とかそんな感じ。慶應エスタブリッシュメントたちはだいたい自分の子どもも幼稚舎にいれていて、同窓ネットワークをさらに広げ、次世代に繋いで、築いた城を盤石にする。
 こんなネットワークを使って、表には出ないような情報を得たり、頼み事をしたりできるので、人脈とはまさにこういうことを言うんだろう。人脈が広い人はよくいるけれど、代を重ねた太い人脈にはとうてい勝てない。

キラキラしていないアメリカを描く『ヒルビリー・エレジー』

 アメリカ次期副大統領、そしてトランプ次期大統領に万が一のことがあれば大統領になるJ.D.ヴァンスさんの著書『ヒルビリー・エレジー』はトランプの隠れた支持者、田舎の白人労働者の姿を描いた本として話題になった。ヴァンスはアパラチア地方のヒルビリー(田舎)出身で、周りに見本となるような人はおらず、社会的資本のない中で這い上がった成功者だ。ヴァンスの描く故郷は『アメリカ死にかけ物語』にも嫌というほどでてくる、全然キラキラしていないアメリカで、そこにはドラッグ、酒、暴力に溢れている。
 看護師免許の維持のため「クリーンな尿をくれ」とヴァンスに要求するドラッグ中毒の母、支給されたフードスタンプを売りつけにきて「制度を悪用する人が多すぎる」と説教する知人、働いても遅刻をし、商品を盗み、解雇されて文句を言う、あげく「社会がわるい」と責任を他人に擦り付ける若者たち、子どもたちは「マウンテンデュー・マウス」(炭酸飲料を飲み過ぎて虫歯だらけになった歯)におかされている。ヴァンスはアパラチアのヒルビリーの白人たちは「怠惰」で「自ら貧困にむかっていく」と書く。

ヒルビリーを突き放すヴァンス

 ヴァンスはそんな環境から高卒で海兵隊に入って退任後、オハイオ州立大学、イェール大学ロースクールを卒業し弁護士となり、同窓エリートの伴侶を得る。ヴァンスは本書でアパラチアに住むヒルビリーたちを自分と同じ仲間だというが、努力でヒルビリー社会を脱して、のし上がったからか、彼らと俺は違うんだ、という葛藤も感じる。
 ヒルビリーを助ける処方箋を書くのではなく、政治では解決できない文化があるとして、「自分でなんとかしなければならない」、「自分でできなければ怒りをエネルギーに変え」、「社会政策は役に立つかもしれないが、私たちが抱える問題を政府が解決してくれるわけではない」と突き放す。(本書を執筆時・弁護士時代の)ヴァンスはヒルビリー救済については政府を頼りにしておらず、行政への諦めをも感じる。

 政治への諦めは、ヴァンスだけではない。酒とドラッグと暴力に溢れるアメリカの田舎の白人たちは、この社会をつくった既存の政治家への怒りや諦めをもち、その怒りと諦めをトランプへの期待に変えた。
 トランプの振る舞いはとても上手い。トランプ自身はアイビーリーグ出身の富豪で、ヒルビリーのような貧困を経験したことはないが、トランプは難しいことを語らず、相手となるエスタブリッシュメント候補を揶揄し、けなし、非難した。エスタブリッシュメントが反論し、丁寧に説明しようとしても、すでに胡散臭いと思われている政治家は信用されず聞く耳をもたない。

 ヒルビリーたちの怒りを期待に変えて当選したトランプが、来年からふたたび大統領として4年間の任期を得た。トランプと「ヒルビリーから抜け出した」J.D.ヴァンスによる政権によってヒルビリーたちの暮らしはよくなるだろうか。

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