『天晴!な日本人』 第87回 「グレート・エンペラーと称された、偉大な明治天皇」(2)
<新しい流れ>
国会開設は板垣退助を中心とした、自由民権運動の高まりが促しました。板垣は土佐(高知県)出身で、大変な清廉の士でした。この人、軍人としても相当に優秀な人で、そっちに進んでいたら指揮官として児玉級だったんではないか、年齢からなら、山県、大山と並んで元帥になっていてもおかしくない人物でした。
板垣は西郷と親しく、西郷が亡くなると嘆息しましたが、同時に、もう士族だ、武力の時代ではないと悟り、自由民権運動を展開したのです。西郷より10歳、大久保より7歳、年下になります。
この年、自由党を結成し、全国を遊説しました。翌年、岐阜で演説中に刺されましたが、「板垣、死すとも自由は死せず」の名文句を残しています。実際はマスコミ、周りの側近が作ったともされていますが、板垣なら言いそうな言葉です。
その際に駆けつけたのが医師だった後藤新平で、「刺されて閣下も本望でしょう」と告げています。
余談ですが、板垣は犯人が服役後、恩赦を政府に働きかけ、早期に出所させると会って、もし自分が間違ったことをしていると思えば、再び刺すがいい、と伝えていました。
議会開設については、2年前に山県が提案しています。その後、明治10年台後半は、自由民権運動の壮士らによる騒乱、暴動が散発したものの、鎮圧され、政治犯らは北海道の集治監(刑務所)に送られ、原生林開拓の超重労働を課せられ、死者がどんと出ました。
ルーズベルトと親密で、日露戦争で大貢献した金子堅太郎が、まだ太政官権書記官の時、太政官布告を出した中で、苛酷な労働で死んでも構わない、としていたのです。獄吏(刑務官)もサーベルを携帯していて、気に入らない受刑者を刺殺していた時代でした。
国会開設に伴い、日本は憲法制定を企画します。ここで伊藤博文が、一気に天皇との距離を縮め、一の臣となるのです。大久保の死後、第二世代の筆頭として活躍してきた伊藤は、今ひとつ、天皇と親しくなれませんでした。
伊藤ばかりではなく、政治家は総じて信頼されてはいなかったのです。贅沢な暮らしをしていること、私利私欲が見えること、カネに汚いことが、天皇にとっては許容できないことでした。しかし、伊藤は、これらのどれにも該当していません。それが天皇にもわかるようになってきたのです。
憲法制定にあたり、伊藤は、1882(明治15)年春から翌年の夏にかけてヨーロッパで調査をしています。
イギリスとドイツの憲法が候補に残り、伊藤はドイツを選び、さらに日本の歴史と伝統を加えるべく、古典の勉強もしました。
今の日本国憲法には、その歴史と伝統がなく、この点からだけでも改正すべきです。憲法というのは、国の在り方を示すものなのに、GHQが即席で作った日本の憲法には、それがありません。
大日本帝国憲法は、1889(明治22)年2月11日に発布されました。これを機に西郷たちは恩赦で賊名を除かれ、もとの正三位を追贈されています。尚、伊藤は功績で、制定されたばかりの旭日桐花大綬章(この時の最高勲章)を授与され、信頼を勝ち取ったのです。
もっとも西郷に対する天皇の思いは変わらず、1883(明治16)年12月には、西郷の子の寅太郎をドイツに留学させ、1200円もの下賜金を与えていました。これは、かなりの金額であり、1902(明治35)年6月には寅太郎を父の勲功によって侯爵にしています。
1890(明治23)年に国会開設のための第一回総選挙を行い、最初で最後のクリーンな選挙となりました。第二回は死者まで続出する、カネと暴力まみれの汚れきった選挙になり、以後、その汚れは消えることなく水面下で続いて今日に至っています。
皆さん、カネを配るということは、欲しがる輩がいるから続くのです!
選挙の度に、たかるのを当然としている後援者、今もたくさんいることが情けないですね。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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