見出し画像

熾烈(しれつ)な戦いが後世に残したものは何だったのか!? 『野辺(のべ) には朽(く)ちじ』 小室(こむろ)直樹 ワック


(4月24日記)

テーマは、「大東亜戦争時の硫黄島いおうとうでの日米決戦と、その結果が日本に与えたもの、効力」です。
著者は2010(平成22)年3月に逝去せいきょされましたが、保守派の良識ある論者として重鎮でした。
皆さんが著者の書を読むことは、「何でも賛成」ではなく、自ら考えるということを実践するならば大いに有益なものになるでしょう。

目次の一部を、ざっと紹介すると、

真珠湾奇襲から硫黄島へ
真珠湾奇襲に対する日米の反応
ミッドウェー海戦における惨敗
栗林くりばやし中将の独創
栗林中将、硫黄島に進出
孤立する硫黄島
栗林中将の要請
全員地下に潜るべし
奇跡の地下豪ちかごう
一人十殺
硫黄島三六日間の死闘
五日もあれば硫黄島は落とせる
中将の作戦を狂わせた海軍の発砲
三日でノルマンディー上陸作戦の死傷者数を上回る
想像もつかない生き地獄
類稀たぐいまれなる勇気こそが一般的な美徳であった
現代に生きる硫黄島
九州に上落したら、 死傷者二六〇万人は出るだろう
日本に有利になったポツダム宣言
原爆のせいで日本には名目がたった
神風は戦後に吹いた
右翼も左翼も不勉強
栗林中将に大勲位菊花章頸飾けいしょく
生死事大
投降した二人にみる近代軍
アッツ島と硫黄島の玉砕ぎょくさいとの違い

などとなっていました。

まず、硫黄島ですが、東京都小笠原おがさはら村硫黄島というのが住所で、東京都内になります。
東京から南に1250キロ、小笠原諸島の父島ちちじまから南西に270キロ、グアム島まで南に1380キロの地点にあり、面積は22平方キロ、周囲22キロの小さな島です。
「いおうじま」という呼び方もありますか、「いおうとう」が当時からの呼び方です。

ここでの戦いは1945(昭和20)年2月16日から行われました。
守る日本軍は陸軍1万3586人、海軍7347人の2万933人、攻める米軍は上陸部隊だけで6万1000人、海上500隻の艦艇の人員も含めて10万人でした。
航空機は日本が75機、米軍が4000機、戦車は日本が1個連隊、米軍は3個大隊、火砲も段違いの差がある状況でした。
米軍の上陸部隊である海兵隊マリーンズの司令官は、「ハウリング・マッド・スミス」、え狂うスミスの異名を持つ猛将のホーランド・M・スミス中将、その頑固さ、軍人としての一徹さで、上官との衝突も度々の人物です。
彼は「5日もあれば落とせる」と語りましたが、米軍は誰もがそう信じていました。

それまでの日本軍の「劣勢な時の戦い方」は、策略なく果敢に攻める正面攻撃で、米軍の圧倒的な装備と人員を相手にして短期決戦を仕掛け、最後は突撃で玉砕、全滅というやり方でした。
もっとも、食糧、弾薬、砲弾も満足になかったので、長期戦となると、米軍よりも、「飢え・かわき」との戦いで、同じ境遇ならば連合軍の将兵は戦場放棄をしたでしょう。
それくらい日本軍は悲惨な軍隊だったのです。
戦争については当レビューで必ずやりますが、皆さんが知れば知るほど、あの時の日本兵、日本人が耐えに耐えまくったこと、強い精神力を持っていたことがわかり、我が身を律し、先人たちに深く感謝し、日本人としての自覚を持ってくれることと信じています。

硫黄島での指揮をとったのは栗林忠道ただみち中将、死後に大将に昇進、でした。
この人は本当に人としても立派な人で、『天晴!な日本人』でも紹介する予定です。
私も高く評価、かつ、人として大好きな将軍です。

ここから先は

5,600字
書評、偉人伝、小説、時事解説、コメント返信などを週に6本投稿します。面白く、タメになるものをお届けすべく、張り切って書いています。

書評や、その時々のトピックス、政治、国際情勢、歴史、経済などの記事を他ブログ(http://blog.livedoor.jp/mitats…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?