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家康の腰かけた石をたずねて

物語をさがして vol.14

こんにちは。暑い毎日ですがお元気でお過ごしでしょうか。

第11回の記事では猪の形をした石を探しに行きました。
今回も石にまつわるお話です。


長久手ふるさとかるた

長久手市にある長久手古戦場公園(愛知県長久手市武蔵塚204)は、よく子連れで訪れた思い出の場所です。パンや飲み物やおやつを携えて近場のこの公園で子どもを遊ばせ、遠出をしなくてもピクニック気分を味わいました。

公園横にはまだショッピングモールが建っていなかったので、周囲は野原が広がり見晴らしがよく、時々通るリニモを眺めたり、芝生のクローバーに四つ葉を見つけたり、クスノキにのぼった息子が突然落ちたり!(苦しい・・・息が止まった・・・と息子は言うので慌てましたが、しゃべっているから息は止まっていなかったです)

公園は今ものんびりとした雰囲気ですが、ここは天正12年(1584)、羽柴秀吉徳川家康が戦を交えた「小牧長久手の戦い」の舞台になった場所。

公園内にある、長久手市郷土資料室では、郷土資料の展示に加えて、長久手古戦場の史跡を紹介した分かりやすいパンフレットや町のお店ガイドなども置いてあり、気軽に持っていけるようになっているのでおすすめです。

先日は「長久手ふるさとかるた」を見つけて、絵がとてもきれいなので手に入れて眺めていました。長久手にまつわる読み札は公募作品で、絵札は現代浮世絵作家、中根幹夫さんによるもの。

「長久手ふるさとかるた」長久手市観光交流協会 中根幹夫さんの美人画が色鮮やかです。

その中から、一枚の絵札。
観光案内のパンフレットにもあって、以前から気になっていた場所、色金山です。

近くの色金山歴史公園(愛知県長久手市岩作色金35)に、「小牧長久手の戦い」の際、徳川家康が陣を張り、腰かけたという石があるというのです。


家康の腰かけた石、床机石(しょうぎいし)とは

家康が石に腰を掛けたのは、ただの言い伝えなのか、何かにそう書いてあるのか。書いてあるものがあれば見てみたいと思い、図書館で資料を探すことにしました。

『長久手町史 資料編六 中世長久手合戦資料集』長久手町史編さん委員会 編

タイトルからして、これに何か載っていそうだと思いました。この分厚い資料集を見て驚いたのは、戦いのあった時期の、羽柴秀吉、徳川家康らの書状、朱印状、判物などの文書が495通も集めて収められていたこと!

他にも多数の書物が掲載されていますが、とうてい読み切れる量、理解できる内容ではないので、「第九章 合戦記」にアタリをつけて、石の話を探すことにしました。

50編ある様々な合戦記の中で、「天正征伐記」「甲申戦闘記に、やっとその記載を見つけました。他の書物にも載っているかもしれませんが・・・見つけられて大満足!

(四月)九日辰の上刻岩作村・井篭ケ根山ニ御陣ヲ召サレ有テ 此時腰カケラレシ石峯ニアリテ、今ニ御床几石ト唱フ、金扇・御的灯ヲ立ラレ、内藤四郎左衛門・高木主水ヲ以テ、敵間ノ地形ノ善ク相考可シトテ、排斥ニ遣ラサレケル、

「甲申戦闘記」(愛知教育大学付属図書館)

※・・・甲申戦闘記は、1763年、水戸藩主の使者三浦浅座衛門が尾張徳川家を訪れた際に地元の者に合戦の詳細を聞き取り作成し、水戸藩主に献上したもの。大正15年に郷土史家津田応助氏が筆者。上下巻。

4月9日早朝、今の色金山に来た。腰を掛けた石は今もあり、床机石(しょうぎいし)と呼ばれていると書いてあります。陣営に金の扇を立て、家康が内藤四郎左衛門・高木主水にあれこれと指示をしたり、戦略を立てたりする様子が思い浮かびました。
(※金扇は、軍記とともに掲げた目印、金扇の馬印とも。)

さて、その石を見に、色金山歴史公園へ行ってみました。
近くを通ることはあるものの、初めて訪れる場所です。
散策道を通り、「床机石広場」を目指しました。

こちらが「床机石」(しょうぎいし)です。思っていたよりずいぶん大きいです。

「御床机石」(しょうぎいし)を示す石碑

近寄ってみると、ゴツゴツしていて座り心地のよい石のようには思えませんが、かなり貫禄のある姿ですね。

石碑の裏に回ってみました。少し地面が高くなっていて、石のあたりから広場を見下ろせる感じがします。陣の傍の巨石。金扇を立てるのにふさわしくシンボリックな場所です。

色金山歴史公園には茶室や展望台もあり、自然の眺めが美しく、静かな場所。

床机石に至るまでに「旧八幡社」の跡がありました。家康はここで戦勝を祈願したと説明がされていました。

記録によると、この後、家康は富士ケ根(現在の富士社)に移り、金扇を掲げます。「御旗山」と言われるそちらにも行ってみることにします。


家康の足跡をたどって

その跡地「御旗山」にも行ってみました。

富士社(愛知県長久手市富士浦602)の鳥居を上がります。神社は合戦より後にできました。

ふるさとかるたにもここの鳥居が描かれています。

階段を上ると、二つ目の鳥居。わりと急な階段があります。

ここです。社殿の傍らに「御旗山」の目印。そう広くはない山頂の地ですが、ここに家康の兵が集まったのでしょうか。見晴らしはよさそうです。

この高台に家康軍の金扇と旗が見えたために、秀吉側の堀秀政隊は退却したのだとか。旗を立てるのにうってつけの立地だったのですね。

すぐ近くに景行天皇社(愛知県長久手市西浦401)という神社があり、駐車場が広く入りやすかったので立ち寄って参拝したのですが、ここにも「家康が戦勝を祈願しに訪れた」ということが書いてありました。私も何か戦勝を祈願しようと思いましたが、臨んでいる戦いがないので・・世界平和を祈念することにしました。

石にまつわる話から、家康の追っかけみたいになってしまいましたが・・・もしかして、家康はほかの寺社にもお参りをしたのでは?

そう思って調べると、色金から御旗山に移る間に教圓寺(愛知県長久手市岩作東島103)でも戦勝を祈願したと分かりました。

信心深いといいますか、マメといいますか。寺社に立ち寄れば宮司など地元の人との交流の中でその土地のこともよく分かり、戦略に生きたのかもしれません。

「小牧長久手の戦い」は記録や遺跡がたくさん残されています。知らなければただの石、ただの山で、通り過ぎるばかりなのですが、史実にほんのちょっと触れるだけで、武将が駆け回った野山と今の町がつながる不思議を体験出来て面白いものです。

みなさんも長久手古戦場に歴史散策に訪れてみてはいかがでしょうか。

色金山の巨石に腰かける徳川家康(想像図)ニシハマカオリ


参考
「長久手ふるさとかるた」 長久手市観光交流協会
『長久手町史 資料編六 中世長久手合戦資料集』長久手町史編さん委員会
『長久手村史』長久手町史編纂委員会
「色金山歴史公園 案内版」 長久手市教育委員会
『劇画 小牧・長久手の戦い』監修 新行紀一 企画・発行 愛知県長久手市



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