十年かけて原点を思い出した話
書くことのハードル
先日、所属しているサークルの中で簡単な「文章講座」を開催しました。偉そうに先生をさせてもらいましたが、個人的にも有意義な時間になりました。
内容や過程を話すと長くなってしまうので掻い摘みますが、僕はこの講座の裏テーマとして技術よりも「書くハードルを下げたい」という想いを持って、参加者の皆様に話をしています。
この講座でそれらが上手く伝わったかは僕の技量によるところもあるので「今後とも精進ポイント」にはなりますが、ただ今思うとこれは、当時の僕が自身に対して「書くハードル」をかなり高めていたから、こうした裏テーマを掲げていたのかなと思い始めました。
「名前」による自縛
書くことのハードルが高かった、というと何も書けていなかったように思われるかもしれませんが、僕は仕事でほぼ毎日何かしらを書く、もしくは編集しています。
複数社のオウンドメディア運用に携わり、必要なら自分で取材や素材撮影にも行きます。それ自体はすっごく楽しんでる。知らない世界に入り込めるのは超楽しい。
ただ、「誰かが発信したいこと」に寄り添っていると、「自分の中の”発信したい欲”」みたいなものも知らぬ間に満たされていたんです。
呪術廻戦における若かりし頃の夏油傑の、「祓う」「取り込む」「祓う」「取り込む」「誰のために?」の流れのように、「書く」「撮る」「編集する」という行いが日々の(やや疲弊した)作業になってしまい、そこに対して「自分で書けるものも撮れるものもあるけど、やる意味あんのか?」みたいな思考に浸かっていました。
そして、クライアントに浸透させるために、現場に合わせて「ライター」「フォトグラファー」「編集」と名乗っているうちに、自分は「書く人」「撮る人」「編む人」なのだと縛り付けていました。
これは今思うとかなり危ない思考だと思います。名前が力を貸してくれることもあるけど、今回に至っては「名前による自縛」です。別に「書くこと」「撮ること」「編むこと」が本質ではないんです。
本質的な「好きなこと」
さて、一度講座の話に戻りますが、講座では以下のような結論を初めに提示しました。
これは、「ここを目指して資料をまとめて出た結論」ではなく、自分が話したい、いくつかの話題やテーマを並べて「あ〜でもこれダラダラ話してても伝わらないだろうから、なんか一言にまとめないとな〜・・・」と考えているうちに行き着いた結論です。
そう、僕はそもそも「書くこと」「撮ること」も好きだけど、その行為が好きで今みたいな仕事や活動を始めたんじゃなくて、「伝えること」「伝わること」が好きで仕事や活動を始めたんだと思い出しました。
「書く」「撮る」という行為はそのためのツールであり、「編む」ことは身につけたスキルです。
在りし日の私は、伝えるために歌ったり、奏でたり、踊ったりもしていました。
伝わる、共感される、想いを繋げる、そういうのが好きなんですね。
思い出を残して共感してもらえるのが好きでmixiに日記を書いていたあの日々も、「なんかようわからんけど写真上手いよな」って褒められてガラケーでずっと撮ってたあの日々も、やってることは変わらなかったんです。
23歳の頃にライター業を始め、フルサイズのデジタル一眼レフを持ち始めて、なので、今の仕事・活動に近いスタイルになってちょうど十年。
十年かけて気付いたというか、思い出したというか、書くことも撮ることも、僕にとってはあまり変わらない行為だったようです。
だから、今度からは自分の仕事や活動を「伝える人」的な捉え方にしようと思っています。職業名としてはよくわかんないけど、自分の中でそういう柱を立てていく。これだけで、脳内がスッキリして、向かうべき先がクリアになったような気がします。
いくつかの「伝わる形」
さて、終盤に差し掛かった余談で話をどんでん返ししますが、僕が作る散文写真の散文は、多分伝わりづらい(!)
というか、散文写真はポエトリーリーディングを軸とした、「読んでて気持ちいい音感・読後感」と「言葉をピースに想像して感情を湧かせること」を視点にして制作しているので、「伝わりやすさ」とはまた別の話で作っています。
ただ、これも一つの「伝える形」「伝わる形」なんです。というか、これを読んでそれぞれに「おもうところ」があれば、そこで完成すると思っています。
私は、「書くこと」や「撮ること」について「祈り」という表現を使用することがあります。写真と文学の先生から飲み友に変わりつつある別所さん(BIG LOVE)にこの話をすると、別所さんは「自浄作用」という言葉を用います。
もしかすると細かいニュアンスは違うかもしれませんが、「書く」「撮る」という、自分から外方向に向かっている行為が、巡り巡って内方向に向かっているという視点では同じなのかなと思っていて、大きな成果や特別なメッセージが無くても、書くことや撮ることは楽しく、素敵な行為だと思っています。
大切に、でも気軽に言葉を届ける
日々仕事で文章や写真に触れてはいるけど、様々な視点や要望に合わせて制作しているうちに、結果的に自分で自分を飽きさせてしまっていたように思います。
飽きているとアンテナも鈍くなってしまうので、ちょっともう一回いろんなことを勉強し直さないとな、という自分の気持ちにワクワクしつつ、
とはいえこのnoteのように、エッセイというか、本当にダラダラ書くだけなから何も思わずに、自分の言葉で書いてもいいのかなって思っています。
そんなリアルな姿を見て、何かを感じてくれる人もいるかもしれないしね。
等身大の言葉や写真で、誰かの気持ちを動かせるように、これからも「伝えること」を楽しんでいきます。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?