劇団☆新感線+南北朝! 裏返しのヒーローの危険な魅力『バサラオ』
劇団☆新感線44周年興行『バサラオ』を観劇しました。鎌倉時代末期から南北朝時代の日本をモチーフとした世界を舞台に、凄まじいまでの美を持つ男が、幕府と朝廷を向こうに回してのし上がっていく姿を描く物語――異常なまでにパワフルで暴力的、それでいて蠱惑的な物語です。
武士と帝が争う島国「ヒノモト」。国の頂点に立つ鎌倉の執権キタタカの密偵として働いてきた青年カイリは、密偵を辞めたいと願うも、逆心を疑われて逃げる羽目になります。
その途中、町中で女たちを従えて派手に歌い踊る美貌の男――同じ里の出身であるヒュウガと出会ったカイリは、そのバサラぶりに惚れ込み軍師を買って出るのでした。
そして自分たちを討ちに現れた女大名サキドを丸め込み、幕府と対立して沖の島に流されたゴノミカドの首を取ると言い放ったヒュウガ。
ヒュウガは沖の島でゴノミカドと対面、半ば挑発によってその本心を引き出したところに、ゴノミカドの皇子を奉じて山に篭っていたクスマ一党を動かしたカイリが駆け付け、ついにゴノミカドを動かすのでした。
京で再会したサキドを味方に引き入れ、ゴノミカドを奉じた倒幕の軍を起こしたヒュウガ。しかしその陰で、彼は京に来ていたキタタカを密かに逃がすという不可解な動きを見せます。
一方、ヒュウガの危険性を見抜いていたゴノミカドは、自分の腹心である戦女・アキノにヒュウガ暗殺を命じます。そして彼女は、実はカイリがヒュウガに殺意を持っていることを見抜くのでした。
人々の思惑が交錯する中、バサラの王として君臨せんとするヒュウガの野望の行方は……
と、本作のモチーフとなっているのは、ある意味タイムリーな題材である鎌倉時代末期から南北朝時代。本作はそれに加えてもう一つ、望月三起也の漫画『ジャパッシュ』をモチーフとした物語です。
現代の日本を舞台に、その美貌とカリスマ性によって力を手にし、独裁者へとのし上がっていく青年・日向と、彼の危険性を見抜き抗う石狩の戦いを描いた『ジャパッシュ』。
望月三起也の作品でも異色作・問題作であり、それだけにファンの心に焼き付いた作品――それがモチーフだと言われれば、わかる人間には一発で「なるほどそういう話なのね」と理解できるはずです。
そんなわけで実際に観る前には「南北朝を舞台にしたジャパッシュか――生々しい話になりそうだなあ」とか「己のカリスマでのし上がって支配者になる男だと、この後歌舞伎で再演される『朧の森に棲む鬼』とかぶるのでは?」などと思っていたのですが――しかしそれはもちろんこちらの浅はかさというもの。実際に眼の前で繰り広げられたのは、そんな思いを遥か彼方に吹き飛ばすような世界だったのですから。
まず驚かされるのは、劇団☆新感線と南北朝――というよりこの時代の「バサラ」との親和性の高さです。
バサラ、婆娑羅とは「南北朝内乱期にみられる顕著な風潮で、華美な服装で飾りたてた伊達な風体や、はでで勝手気ままな遠慮のない、常識はずれのふるまい、またはそのようす」(日本大百科全書)。
本作のサキドのモデルである佐々木道誉がその担い手として有名ですが、本作のヒュウガはその言葉に相応しい存在として描かれます。冒頭、舞台の上から吊りで「降臨」する姿で心を掴まれましたが、以降も物語の要所要所で歌い、踊る姿は、まさにバサラの王に相応しいといえます。
そもそも劇団☆新感線のいのうえ歌舞伎の魅力の一つといえば歌と踊り。ヒュウガを中心に、躍動感たっぷりに人々が歌い、踊る姿は、大袈裟にいえば、まさに婆娑羅のイメージが形のようになった存在と感じます。
劇団☆新感線で南北朝といえば、過去には『シレンとラギ』がありますが、ギリシア悲劇をベースとしたあちらと比べると、この「婆娑羅」とい存在を中心においた本作は、大きくイメージが異なるものであり――そしてよりこちらの心に共鳴するものとして感じられました。
さて、そこのような物語世界に登場するキャラクターが普通であるはずもなく、ほとんど皆が皆、自分の信念――というよりもエゴで動き、それが混乱をさらに加速させていくのもまた、実にこの時代らしいといえるでしょう。
こうしたキャラクターの大半は、『ジャパッシュ』モチーフのヒュウガとカイリを除いて、実在の人物をモデルにしており、それは名前を見れば察することができます。
ゴノミカド(後醍醐天皇)、キタタカ(北条高時)、サキド(佐々木道誉)、クスマ(楠木正成)、アキノ(北畠顕家)――いずれも歴史に名を残した強烈な個性を持つ面々がモチーフですが、彼らを演じるキャストもまた、はまり役揃いなのが嬉しいところです。
特に印象に残るのはゴノミカドです。普段は関西弁のとぼけたおっさんながら、裏では髑髏本尊を崇めて幕府を呪詛し、時に平然と配下を切り捨て、そして途方もなく暴力的な行動に出る――そんな主人公の最大の壁というべき存在を古田新太(『シレンとラギ』では後醍醐に当たるキャラに対峙する側だったのが今となっては面白い)
が演じた時点で、キャスティング的に大勝利というほかありません。
その他にも、気に入った男の生首を獲るのが大好きというとんでもないキャラでありつつも、どう考えても後藤久美子リスペクトを感じさせるアキノや、右近健一の毎度のハイな声とキャラが楽しいボンカン(文観)も、印象に残るところでした。
(ちなみに本作、新感線のベテラン勢がほとんどフルメンバーで脇を支えているのが、これまでの作品以上に物語を盛り上げていたと感じます)
しかしそれでもなお、そんな面々を押しのけて、常に物語の中心にいたのは、ヒュウガとカイリの二人――天下を取るという確かな目的で結ばれているようでいて、互いを含めた他者への裏切りや謀略を繰り返す、一瞬たりとも油断できないキャラクターです。
己の美を輝かせることを行動原理とするヒュウガはもちろんのこと、その影のようでいて、それ以上に策謀を働かせるカイリも一歩も引かない――これまでの新感線作品にもバディ的な二人は様々登場してきましたが、この二人はその関係性を裏返しにしたようにも感じられます。
いや、裏返しといえばヒュウガの存在は、これまでの新感線作品に登場したヒーローたちの裏返しという印象が強くあります。
もちろん全てではないものの、たとえば『髑髏城の七人』の捨之介や『五右衛門ロック』の五右衛門がそうであったように――人々を苦しめる悪党を叩きのめして平和を取り戻し、人々の前から風のように去っていく。確かに、そんな痛快なヒーローたちと同様に、ヒュウガもまた、人々を抑えつける者たちを容赦なく叩きのめしていきます。
しかしその先にヒュウガが求めるものは平和や人々の救いではなく、混沌の中で己の美が咲き誇る世界――そのために倒すべき幕府や帝もまた、強大かつ悪辣な存在として描かれているものの、それ以上に容赦なく敵を追い詰めるヒュウガの姿は、やがて痛快さを通り越し、本当に彼に喝采を送ってよいのか、考えさせる存在となっていきます。
この辺りは、やはり『ジャパッシュ』の日向に通じるものがあります。しかし、あちらが明確に独裁者の座を求める邪悪な存在であったのに対し、「己の美」という価値観が間に挟まることで、ヒュウガは、まだマイルドな印象を与えますし、舞台が混沌とした南北朝時代モチーフであるのも、印象を大きく変えています。
さらに、日向に対してほとんど無力だった石狩と異なり、カイリはヒュウガと対等に近い存在である点も大きいでしょう。
(それにしても最後の最後に『ジャパッシュ』ネタを投入してくるのにニッコリ)
その一方で、終盤のあるシーン――ヒュウガに喝采を送る「自由な」群衆が、自分たちよりも弱い存在には容赦なく暴力を振るい、奪い取る姿を見れば、「今」だからこそのヒュウガの危険性について、作り手側も自覚しているとも感じられます。
もっとも、あのオチ的なラストシーンには、それでも一種の迷いというか衒いも感じてしまうのですが……
しかしそうした危険性は感じさせつつも、それでもなお、ヒュウガというキャラクターも『バサラオ』という物語自体も、非常に魅力的であることは間違いありません。
特にクライマックスの両軍の決戦――舞台上で帝二人が連続して××されるという展開には、本当に良いのか!? と仰天――から、バサラの王となったヒュウガが群衆を従えて舞い踊る、高揚感に満ちたシーンに続く流れには、「自分は今、何かとんでもないものを目撃している!」という得体の知れない感動を覚えました。
この生観劇の醍醐味というべき強烈な感覚は、正直なところ新感線の舞台でも久しぶりに味わったものでしたが――それだけ本作が衝撃的な作品であるというべきなのでしょう。
新感線でも屈指の殺伐としたシーンの多さ(これだけ多くの生首が出てきたのも珍しいのでは)にも、そして大きな危険性を孕んでいるにもかかわらず――それでも不思議な爽快感を感じさせる、まさに主人公のキャラクターそのものを体現するような作品です。