わたしが介護話をする理由_02
こんばんは、かわだです。
前回同様、三田についてだらだら書きます。
↑こちらのnoteは突然始まった介護から、
資格を取って現場で働いていた時までの話で、
介護=老化=目を背けたい現実・将来
というイメージについても書きました。
そして、ちょっとでも良いので介護について
自分ごととして考える機会を作ってほしいし、
周りにいる大切な人たちの人生も自分の人生も
まるっと大事にしたいからです!!
ということも伝えたい思いとして書きました。
はい、そんなこんなで(?)
先日初めて、少人数ですが人前で介護の経験談を
お話しさせていただきました。
親しい友人にも話したことがなかったので、
自分がどのような感情になるのか?
想像が全くできなかったので不安でした・・・
どんな話をしたら役立つだろうか?
どんな話が聞きたいだろうか?
などなど、十年以上前の記憶を辿りながら
エピソード出しの作業をしましたが、
思い出しながらまあ、涙が出るわ出るわ。
どんな涙かというと、主に後悔や自責の念。
でも、当時はとにかく文字通り必死だったので
一度くらいしか泣いてません。
それは、自分の感情に気づけるような
心の余裕が全くなかったからです。
後々、客観的に考えられるようになり、
思い出して当時の感情になって泣くというような
妙な感覚ですが、そんな感じです。
わたしの場合、お葬式後、落ち着いてから
恩師に報告しに行った時、
初めて自分の感情を正しく理解して泣きました。
「ああ、わたしは、こんなふうに思ってたんだ」
と、ようやっと整理できた感じでした。
第三者に話すことで、感情が整理できる
って、こういうことかと実感しました。
無論、恩師の巧みな傾聴力の影響もありますが!
自分の感情に気づけないほどの余裕の無さ
って、非常に危険で、わたしがそうでしたが
自分がそんな状態で相手を思いやることなんて
できるわけがないんですよね。
でも、そんなことももちろん気づけない。
だから、たくさん後悔してるんです。
いまだに自責の念に苛まれているんです。
もっと相手が望むような選択肢があったのに、
「この選択が最善だ」と呪いのような”べし”に
思考が支配されてしまって・・・
言うまでもなく、介護は大変なので、
だれしもがそんな状態に陥る場合があります。
余裕がない人が悪いとか、
介護について話してくれなかったのが悪いとか、
そのような話では決してありません!!
今回人前でお話しさせていただいた時、
話の締めくくりで
「まずは、自分の感情に気づくこと」
という話をお伝えしました。
まずは自分のこと、自分の人生を大切にする。
それは、相手にとっても大切なこと。
あなたの生活や人生を犠牲にしてまで
相手は介護してほしいと望んでいるのか?
そんな気づきさえ自覚できないほどに
追い詰められてしまう前に、どうか、
自分を大切にするという選択をしてください。
ネガティブモードになりそうなので、
今回はここまで!!
また後日、介護話書く予定です!三田