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多様性とダイバーシティと、分類っと。~キラキラで、厄介で、パラドックスで

認めよう。
みんな違ってみんないい。
価値観の違いを理解しよう。
世界に1つだけの花。

「多様性」
「ダイバーシティ」
を説明したり肯定するのってこんな言葉のイメージ。

そして、こちらは昨年大ヒットしたセカオワのHabit。
ここでいうHabitは[Bat Habit](悪い癖)を指します。
曲もダンスもインパクトがあり好きです。


いきなりですが、
私の自分で思う「私」についての一部を、つらつら書きます。

  • 好きになったらこだわりを見せるオタク気質。

  • 熱しやすく飽きやすい。

  • 陽キャな女子集団が苦手で、学生の頃は一匹狼。

  • 休日出かけないのを気にした親に「休日にまで人に気を遣いたくない」と言ったらしい。

  • 先生受けが良く、クラスの子の世話係をしていた。

  • 学級委員をして生徒会にもいた。

  • 社会人になっていきなり仕事が上手くできずに挫折。適応障害になる。

  • 仕事を一緒にする人からは「真面目」とよく言われる。

  • ただ「考えているように見えるけど実は考えていない」とも思われる。

  • オフィシャルでは緊張しいで「頑張っている」。

  • オフィシャルでは空気を読んで気を遣うし、しゃしゃり出ない。

  • 余計なことに巻き込まれないように、一歩引いて見ている。

  • 知らない人の集団では人見知り。自分からあまり話しかけない。

  • 想定外なことに慌てまくる。

  • プレゼンは苦手だが、人に話を振ったり聴いたりは得意な方。

  • 好きなことに対して、1人ではガツガツ行ける。

  • おひとりさまOK。

  • 電話が苦手。特に全くの他人からの電話は何を言っているのか聞こえなくなる。

  • 基本平和主義。

  • 妄想癖あり。創作好き。小説や漫画を書いていたこともある。

長くなるのでこの辺で。
色んな性格や気質が入り混じっています。
さあ、こういう私は自分のことを
「自閉傾向があるけど普通だな」
という風に思っています。

不快に思われるような表現を出してしまいましたが、
特性の名前や「普通」が出てくるのは、長女が「自閉スペクトラム症(ASD)」であることが分かって、意識してきたからだと思います。
娘がASDだと分かり、実兄も知的障害のあるASDなので、
私もその血を持っているのかもしれないし、振り返ると私もそういう人だったかも、と思ってしまう。

夫や長男、周辺に対しても心の中で”つい“特性の名前を使ってしまう。

これまで兄の障害について、実親は大変だったし妹としての思うところはありつつも「あくまで兄のこと」だったのが、
娘のことがあってから自分事になり、
私は私や私の周囲を「分類」してしまうBat Habitがつきました。
そして、「多様性」という便利な言葉が動き出してから、多様性を肯定し、娘のことを分かってほしいという思いを表出したくなってしまったのです。


けれど、次第に気づいた。
「多様性」はキラキラ言葉だなと思う。
「多様性を認めよう」
と言いつつも、それは様ざまに「分類」される人や価値観があるんだよという意味の「多様性」を余計に認識せざるを得ない。

要は、その言葉で「区別」されてしまうのです。
多様性を押し付けられると、かえって「違う」ということを意識してしまう。
そっち側だとか、そっち側じゃなくてよかったとか。

例えば、学校の「合理的配慮」。
障害のある子に他の子と同じレベルくらい出来るための工夫を認めることを言います。
文科省がそういう配慮をすることを求めています。
先生は子供達に説明しますが、たまに「障害を盾に良い思いをしてる」とか「障害を前面に出すな」とか返って反発されることを聞きます。(子供だけでなく保護者からも)
学校の中で「多様性を認めよう」って言っても、その中では
<普通学級><支援学級><情緒障害者学級>など子供達は既に「区別」された空間にいるので説得力がないのです。
「配慮」という言葉を使っている時点で、「他の子とは違うんだよ」ということ。
これだから、インクルーシブは現状日本で進むわけがないんです。
小さい時から「違う」ということを植え付けられるのだから。

何も障害に関してだけではない。
マイノリティ全般において、
「多様性」や「ダイバーシティ」を押し出されて、配慮を受け、区別され、
余計に自己を表出できなくなったり苦しむ人もいる。
多分その辺は浅井リョウ氏著の「正欲」を読めば、知ることができるかと思われます。

(2023年11月に映画も公開されます)


私は「多様性」の言葉の下に、自分や人を区別してしまう親になってしまった。
娘の特性に似ていたり発達障害を持つ大人に気付くことも早くなったし、その人に対する対応方法も考える。配慮をしようとする。

でも。
完全な親心ですが、親として娘の特性を認めてほしいんです。
娘がいじめを受けないように自己肯定感が低下しないように、少しでも分かってほしい。
娘が困った場面があったら、合理的配慮もお願いしたい。
娘が大きくなった時に自分のことをどう思い感じるかなんて、今は考えられない。

そんなパラドックスの中にいます。
「多様性」という厄介な言葉は肯定したいけど、肯定しないようにしたい。


そう、厄介なんです。
このキラキラ言葉は。


追記)
私の周囲というのは、身内や近しい人たちで、
それ以外の方々は意識して詮索して見たりはしていませんので、
あしからずです。


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