GWの読書で考える多様性と特権
特にすることのないゴールデンウイーク、インプット期間としていろんな本を読んでいる。
今度、「あぜみ」という今入っているオンラインゼミで自分の「特権」について話すことにした。その前提としての知識を慌てて身に着けている。
なぜ「特権」について話すのに、多様性の本を読むの?といえば、多様性の実現に「特権」が大きく関わりがあるからで。あぜみの主催者である野口晃菜さんのnoteに、端的にまとめられている。
「特権」を持っているひとは、「特別」だと自分が感じていなくても、当たり前に社会の中で生きられてしまう。競争社会に順応できて、「ふつう」に暮らしていくことができる。その当たり前は、じつは社会構造や育ってきた環境が自分にとって優位なものだったから、にすぎない。だけどそう言われても、自分の努力はじゃあ認められないの?といえばそういうわけでもない。ただ、有利だったという事実があるだけで、個人の努力自体は素晴らしいものだ。
では「特権」に自覚的になった後、どうやって行動したらいいの?というのがよくわからなくなる。自分は、男性である程度健康に働くことができていて、妻も子どももいる、日本で生きるのにそれほど不自由のない「特権」をたくさん持っていて、なにかをまとめて発信することもできる。
その特権を棄てたらいいのか、と言ったらまた違う。実際、わたしが持っている特権なんて、状況が変われば簡単に消えてなくなる。それはすべての人にとってそうだ。わたしも、実際に仕事もできなくなって、男性がマイノリティな社会にたくさん関わって、「特権」のない世界の生きづらさを経験した。「特権」なんてそんなたいそうなものではなくて、だれもが特権を持つ側にも抑圧される側にも回る可能性がある。
いろいろとぐるぐると考えを巡らせていても、答えが出てこない。そこで出会った本がまた面白くて、脱「いい子」といういかにも「わきまえない」感じが出ているこの本だ。
これもまた、出版社が丁寧に説明しているので、ここでは省略する。
ここで引用したいのは、下記の箇所だ。
「アライ(ally)」(横からの支援者、伴走者)として、当事者と協働するなかで問題の解決法を見出していく
特に支援者の人は優しくて、ともすれば自己犠牲的になる。福祉に携わる人は、とても大切な命を預かる仕事をしているはずなのに、その給与は低い。そして、効率性や生産性といった価値に還元されない仕事をしている。だけど、支援者の人がいい子に甘んじて待遇の悪いままだと、その先の支援される側も、良くない影響を受けてしまう。そんな社会の構造の、おかしいことはおかしいと言えば良い。そして特権のある人にまで声が届いて、大きな流れになれば、社会は少しずつ変わっていく。
なんとなく、おぼろげに「特権」を自覚した私たちはどうしたらいいのか、が見えてくる。でも、こういう話は、とても他人を傷つけてしまいやすい議論で、いくら自覚していても、守り切れないものが必ず出てきてしまう。誰もが、完璧な仏様のような人にはなれない。言葉のプロのような人が何かを書いても、炎上することもある。
だから、もっと当事者のこと、これまで戦ってきた人たちのことを知りたい、学びたい、と思う。私は、障害についても、女性やLGBTQのことについても、まだ未熟でよく分かっていない。
フェミニズムも、なんか怖くて話に出せない、中途半端な知識で首を突っ込めないと思う人が多いはずだ。たしかに専門性のある学問でもあるし、中学や高校でも一般的には学ばないことだから。でも、上記の本は、少なくともそんな怖いものではない、と教えてくれる。むしろいかにそれが弱いものか、その「弱さ」に切なくなるくらい向き合っている。
知らないことを話すことはできない。だから、学べることはどんどん学ぶ。そして、自分の経験は自分自身の言葉で話すことができる。私は何を経験し何を見てきたのか、そして何を思い、何に迷い、どのように「特権」と向き合っていくのか、そんなことが話せたら、と思っている。