中学生の頃お世話になった、2人の女教師についての話。
僕には中学時代、大変お世話になった先生が二人いる。水泳部のコーチにしてクラス副担任だった英語教師の朝岡ひとみ先生と、テニス部顧問で数学教師の北見玲子先生である。本稿では僕がこの二人の恩師と如何にして出会い、如何にして多大なご教示を賜ったのか、感謝の念を込めて以下に記したいと思う。
あれは忘れもしない、中学二年の七月の頃である。野球部に所属していた僕は、当時唯一の二年生レギュラーとしてライトのポジションを任され、その他八人の三年生にとっては最後となる夏の市の大会・第二回戦に臨んでいた。同点で迎えた最終回の裏、ワンアウトランナー三塁。ライトを守っている僕の前にフライが飛んで来た。相手チームの三塁ランナーはそのフライが僕の前に落ちると判断したのか、少し逡巡を見せた後にすぐさまホームに向かって走り出した。僕は迷った。ギリギリでのスライディングキャッチを狙うか、ワンバウンドさせた後にホームでランナーを刺すか。一瞬の葛藤の末に僕は後者を選択し、捕球した後素早いモーションでホームへと送球した。中腰に構えたキャッチャーのK先輩のミットに白球が吸い込まれ、それと同時にランナーが滑り込み、砂塵がホームベースの上に舞い上がった———
球場を出た後、先輩たちはしばらく帽子のツバを深くしたり、腕で目元を拭ったり落とした肩を震わせたりしていたが、次第に「いや、オレたちは三年間よくやったよな」みたいな前向きな空気感を醸し出し始めた。それに伴って、三年生たちは自分のアンダーシャツやバチグロ(バッティンググローブのこと。バッティング手袋を略してバッテとも言う)などを後輩に託すという毎年恒例の儀式を各所でやり始めた。僕はと言えば、「自分の最後のプレーで負けた」という責任の重大さにしばし呆然自失としていたが、先輩たちから「いや、お前の判断は間違ってなかったよ」と優しい声をかけてもらい、やがて気を取り直して「先輩たちの三年間を労おう」と素直に考え始めていた。
「おーいとろろーー」
不意に背後から呼ばれた僕は後ろを振り返った。キャッチャーにして副キャプテンのK先輩である。K先輩はひょうきんな人で後輩たちにも広く慕われていたが、そんな先輩も今日で引退かと思うとやはり寂しいものである。
「お前にはこれをやろう」
僕の方へ差し出された先輩の手のひらの上には、アンダーシャツでもバチグロでもなく、一冊の本が乗っていた。
「オレが今までの人生で一番大切にしてきた本だ。元気がない時はいつもこれを読んでた。とろろにやるよ」
「あ、ありがとうございます」
僕はその本を受け取った。今でもその光景はよく覚えているが、文庫本サイズのその本にはくまざわ書店のブックカバーがかかっていた。どんな本なんだろう、と僕がその本を開こうとすると、
「あ、待て。ここでは読まない方が良い」
と先輩から注意された。先輩はなぜか周囲を気にするかのような素振りをしている。
「? なんでですか?」
「いや、ここで読むと興奮が抑えられなくなっちゃうかもしれないからな」
「えー、そんなに面白いんですか、これ」
「あぁ。スゴイよ。この本は」
「そうなんですか…… 分かりました。家に帰ったら読みます。ありがとうございます。大事にします」
「おう」
先輩はニカっと笑った。僕はミズノのエナメルバックの奥底にその本を丁重にしまった。僕のもとから踵を返して夕焼けに溶け込んでいく先輩の背中には、中学野球部生活にいっぺんの悔いもなし、というような潔さと安らぎがあった。
その後、帰宅した僕はお風呂に入ってスッキリし、自分の部屋のベッドにダイブした。来週からは僕たち二年生が野球部を引っ張っていくことになる。やっていけるだろうか。ポジションや打順はどうなる? そもそも誰かキャプテンになるんだ? もしかして僕か? 今まで唯一の2年生レギュラーだったのだ。ありえない話ではない。期待と不安が入り混じる中、僕はしばらくの間ベッドの上で煩悶としていたが、ふと思い出してエナメルバッグの中を探った。あった。K先輩にもらった本である。何気なく表紙をめくると『世界一甘い授業』というタイトルがまず目に飛び込んで来た。そのタイトルの下には「フランス書院文庫」とある。子どもの頃から読書が好きだった僕は、文春文庫、講談社文庫、新潮文庫、角川文庫とかなら馴染みがあるが、フランス書院文庫なんてレーベルの文庫は聞いたことがない。さらにその下にある「神瀬知巳」という作家も知らない名前である。僕は首を傾げた。なんだ、この本は。とりあえず小説みたいだが……
懐疑を募らせながら、僕はさらにページをめくった。すると今度は目次らしきページが出てきた。今から十年も前のことだが、確か以下のように書かれていたと記憶している。
「世界一甘い授業 〜未亡人女教師と新任女教師〜
目次
第一章 はじめての異性は年上の女教師
第二章 僕の悩みを解決してくれる未亡人の美唇
第三章 第二の誘惑者は新任女教師
第四章 甘えん坊な僕を大人にしてくれる女(ひと)
第五章 かわいい先生vsいけない先生
第六章 放課後の同居生活【甘い三人暮らし】
エピローグ」
正直に言うが、当時中学生の僕はこの目次を見てもなお、これがどう言う本なのかがまだイマイチよく分かっていなかった。「美唇」ってなんだ? 読んで字の如く「美しい唇」ってことかな?読み方は「びしん」でいいのだろうか…… なんにせよ初めて見る言葉だなぁ、などと純粋にボヤボヤ考えていたのである。
当時、僕は東野圭吾のミステリーや吉川英治の『三国志』などにハマっていた。皆さんは東野圭吾の『秘密』という小説を知っているであろうか。二十三歳の今読み返しても切なさで胸がつまりそうになるストーリーで、ミステリーの枠に収まらない東野圭吾の真骨頂とでも言うべき傑作感動長編である。ただ、当作には結構大人な描写があったりもする。僕が『秘密』を初めて読んだのは中学一年の頃であるが、性の目覚めが遅かった僕にはまだ手に負えない表現が『秘密』にはたくさんあった。例えば、妻を交通事故で亡くした主人公の男が札幌のすすきののソープに行くシーンである。
「女に身体を洗われ、ビーチマットに横たわった。全身にローションを塗った女が、身体をこすりあわせてくる。股間が平介の目の前に来た時があった。女性器を見るのも久しぶりだった。一瞬軽い目眩を覚えた。そのくせ一方では、ああこういう形をしていたっけと冷めた頭で観察している」
ウブな十三歳の僕が引っかかりを覚えたのは、「ああこういう形をしていたっけ」という部分である。女性器って、形がどうとか言うほどそんなに複雑な形状なの? 足と足の間に一本スジが入ってるだけじゃないのか? という疑問である。しかし、『世界一甘い授業』のある一節を読んだ僕は衝撃を受けた。以下その引用である。
「包皮を剥いて肉芽の付け根から舐め上げるやり方、肥大した中心を吸い立てる口遣い、音を立てて花弁を責めしゃぶる方法—— はずかしめられながらも悦んでしまう女のツボを、彼は知っているかのようだった」
どうやら主人公の少年(真田遼一という)が女教師(この場面は北見先生)の女性器を彼女の命令に従って舌で舐めているらしい、ということだけはかろうじて文脈から理解したのだが、問題はその女性器の表現だ。包皮? 肉芽? 花弁? 中心が肥大する? ――そう、何がなんだかサッパリ分からないのである。さっぱり分からない(湯川先生?)。分からないが、僕の知らない、まさしく「秘奥」と言うべきその深淵なる世界の一端に僕は直面している! というかつてないほどの知的興奮が、そこにはあった。でも分からないものはやっぱり分からない。十数年の読書遍歴の中でこれほどもどかしさを感じたことも無かっただろう。辞書も引いてみたが、「外傷や炎症により欠損を生じた部分にできてくる、赤く柔らかい粒状の結合組織。肉芽組織。にくげ」などと書いてあって、混迷はますます深まるばかりである。当時の僕はスマホを持っていなかったので、このあたりが限界であった。あとは様々な文脈から形態を推察し、イメージを膨らませるしかない。今にして思えば『世界一甘い授業』は僕の読解力・文章力向上にものすごく貢献したのではないかという気がするから、人生の巡り合わせとはなんとも不思議なものである。
右記の点だけでなく、『世界一甘い授業』は全編に渡って僕に衝撃を与え続けた。まだ中学二年生だったとはいえ、僕もそれなりに男女が事を致しいているシーンが書かれた小説などは何冊か読んだことがあったが(重松清とか浅田次郎とか石田衣良とか)、『世界一甘い授業』は「そういうシーンが多々ある」どころの話ではない。「ずーっとそういうシーン」なのだ。息つく暇もない。知らない言葉や文章のオンパレードだった。○○○○○○ス、○○○○ス、オー○ズム、カ○○ー○○液、○○き、○○○○オ、○○○○オ、 ○○○リ…… 全く枚挙にいとまがない。また、○液は栗の花の匂いに似てるらしい、ということも初めて知った。そして、予測不能なストーリー展開。最後の意外な結末。今読み返してみても、その表現の妙はまさしく天才的だと感心してしまう。
例えば、冒頭のシーン。主人公の真田遼一少年が美術室の鍵を開けてもらうためにクラス副担任の朝岡ひとみ先生を美術室の前で待っているところから始まるのだか、そのひとみ先生はなかなかやって来ない。「どうしたんだろう?」と遼一が不審に思った矢先、廊下にハイヒールの乱れた足音が響く。遼一が顔を上げると、そこには濡れたブラウスと靴しか身につけてないように見える妙齢の女教師が立っている。「ごめんなさい、水泳部のコーチに夢中になっちゃって、慌てて来たの」。そう、まだ濡れている競泳水着の上からブラウスだけ慌てて羽織った結果、こんなにもインモラルな格好になってしまったのである。今にしてみると「逆にブラウス着ない方がよかったんじゃない?」とか思うわけだが、そこで着て来てしまうところがひとみ先生のひとみ先生たる所以である。ただ卑猥なだけではない。そうなった理由がちゃんとあり、しかもそれが朝岡ひとみという一人の未亡人アラサーグラマラス美女のちょっと天然な魅力を端的に表現することに成功しているのである。この冒頭の数ページを読んだだけで僕は鳥肌が立つのを感じた。この文才はもはや神の福音としか言いようがないであろう。
中盤から出てくる北見玲子先生の人物造形もよくできている。ひとみ先生が母性と淫乱のギャップで魅せるグラマー未亡人美女なら、若い北見先生はドSとみせかけて実はウブで処女なクールスレンダー美女、と言えるであろう。個人的には、日本のツンデレの頂点は惣流・アスカ・ラングレーでも涼宮ハルヒでもなく、北見玲子(二十五歳)であると確信している。図書室で致すシーンなど北見先生の名場面も多々あるのだが、それらをこれからまた逐一紹介するのは流石にそろそろ何かの法律に抵触してきそうなのでやめておこうと思う。もし仮にここまで読了した女性の方がいたとしたら、こんなキモい文章で本当に申し訳ありませんとしか言いようがない。セクハラで訴えられても某一万円多目的芸人のように僕は何も言い返せないであろう。まぁ何はともあれ、「こんな小説もこの世にはあるのか……」と、当時の僕は目が覚めたような、神に啓蒙されたような心地だった。そして新たな境地へと僕を導いてくれたひとみ先生と北見先生にはいつか、この言い尽くせないほどの感謝を直接伝えられたらと思う。
ところで、我が往年のバイブル・老子道徳経(僕の大学での専門は中国古典文学)の第六章には以下のような一節がある。
谷神は死せず、是れを玄牝と謂う。
玄牝の門、是れを天地の根と謂う。
訳) 谷に宿る神(女性器の暗喩である)は不死身である。それを玄妙なる牝という。玄妙なる牝の陰門(女性器そのもののことである)を、天地の根源という。
岩波文庫の解説によると、「玄」という字は「薄暗くて、測り知れないほど奥深い有様」のことだそうである。つまり谷神の作用というのは、万物を生み出すという、常人には到底分かり得ない壮大なものであり、女性と同衾して事を致す(道教の世界ではこれを房中術と言うらしい)ということはその神秘を理解するということと同義である。当然、僕はその神秘をまだ、全くと言って良いほど理解していないのだろうし、逆に言えば房中術はそれだけ難しい修行だということである。「童貞卒業なんて簡単やろ」なんて言うとんでもねー輩はロクに古典も読まない学のないヤツに違いない。そうに違いない。
とはいえ、僕ももうすぐ二十四歳になる。まぁ、いろいろ頑張りたいと思う次第である。
(終)