【noteコンテスト】創作とは制約の中で理想を貫くことである
noteコンテスト
noteには数多のクリエイターたちが集っている。
いずれも才能に溢れていて、自分が記事を読みあさる時には、まるで宝箱の中をこっそり覗かせてもらっているかのような気分になる。
クリエイターたちの中には自分のように勝手気ままに記事を書き綴っている御仁も存在するが、あわよくば文筆業すなわちペンで身を立てる職業に就くことを目指す人も一定数存在するようだ。
そして、そのデビューの登竜門となるのが各種文芸コンテストという位置づけとなっている。
〇〇新人賞受賞 → 作家デビュー!
無名の新人にいきなり著作依頼がくるような奇跡は起こらないので、まずは実績づくりが必要だ。
賞を受賞すれば、それなりの人と認識してもらえて将来展望が開けてくるのだろう。
文芸コンテストとしては芥川賞や直木賞、本屋大賞などが有名どころであるが、このnoteにも賞レースは存在しているようだ。
noteコンテストの代表例は創作大賞だ。今年もおこなわれている。
創作大賞はnote公式主催のコンテストだが、これとは別にクリエイター個人が主催する私的なコンテストも存在する。
その1つが、藤原華さん主催のnoteコンテスト「なぜ、私は書くのか」だ。
藤原華さんは、第一回創作大賞のグランプリ受賞者であり、大手Web媒体の編集長を務めたのち独立し現在は新人編集者やライターへの研修をおこなっている方だ。また、初めて書いたnoteが宝島社より書籍化され全国書店にも並んでいるそうだ。
note文芸界のカリスマ的存在であると言っても過言ではないだろう。
そんな彼女が開催するnoteコンテストであり、しかもお題が「なぜ、私は書くのか」というクリエイターたちのアイデンティティに迫るテーマであったことから、コンテストはnoteクリエイターたちの間でたいへんな注目を集めたようである。
そのことは、コンテストの賞金として計134人のクリエイターからサポートが集まったことからも窺い知ることができる。
作品の応募件数は210件にのぼり、現在は中間選考通過者の発表までが完了し、あとは9月中旬の最終選考の発表を待つばかりの状況だ。
まず、藤原華さんについてであるが、第一回創作大賞のグランプリ受賞者であることだけでも尊敬に値するが、個人の立場でこのように大規模なコンテストを企画・開催する実行力には深く敬意を表したい。
そのうえで、現在、noteコンテスト「なぜ、私は書くのか」の中間選考記事を巡ってnote界隈が騒然としている件について私見を述べたい。
中間選考記事と反響
以下が件の記事である。
自分の記憶では記事初出時にはなかった以下の注意書きが冒頭に追記されており、そのことからも騒動の大きさが窺い知れる。
この記事自体は、中間選考を担当したマネージャーのジャスミンさんに仮託して書かれているが、内容は藤原華さんの意思そのものであると自分は受け取っている。
この記事の何が凄いかというと、通常のコンテストでは明かされない落選理由を語っている点だ。
単純に、通過作品名のみをサラッと発表すればすむところを敢えて落選理由を語ってくれているのだ。
これは自分が考えるに、応募作品に対する藤原華さんなりの愛情表現なのだと思う。
具体的に何がダメで落選したのかを伝えることで、プロを目指すクリエイターたちのスキルアップにつなげたいという思いが感じられる。
経験と実績の藤原メソッド(筆者が勝手に命名)を無料で伝授してくれようとしているのだ。
ただし、その表現方法が極めてストレートであり、ある意味言葉の暴力とも受け取れる表現となってしまったのが、誤解を生む原因となっているようだ。
その点が私には残念に感じられたが、敢えて強い表現をしないと伝わらないと考えていた節も感じられる。
しかし、note文芸界のカリスマ的存在である藤原華さんの言葉は、そのファンにとっては大げさに言えば神の言葉にも近しい。
結果として、ナイフのように鋭く尖った言葉は、藤原華さんの想定を超えて多くのクリエイターたちの心に刺さってしまった。
何しろ、藤原華さんは、豊富なWeb媒体編集者の経歴でわかるとおり記事の書き方のプロであり、どのような記事を書けば受けがいいかを熟知している方だ。
そして、その実力を第一回創作大賞のグランプリ受賞で実証しており、説得力が半端なさすぎるのだ。
note界隈では、向かうところ敵なしのクリエイターの1人である。
そんな人に投げかけられた言葉故に、思わぬ反響を呼んでしまったように感じている。
実際、noteでは様々な意見が飛び交った。
中間選考を無事通過した人、残念ながら落選した人に加えて、自分のような応募していない人を含めてさまざまな人が思いを発信している。
ここでは個々に紹介することはしないが、おおよそ次のような意見が見受けられた。
ポジティブな意見も多かったが、やはり心に残ったのはクリエイターたちの悲痛な叫びの方である。
生み出された作品は、もはやその人の分身であり、それが否定されたときの気持ちは痛いほどわかる。
なお、思わぬ反響があったためか、その後にフォロー記事が書かれている。
図で考えてみる
状況を整理するために、noteコンテストを図で考えてみたい。
図1は、「応募作品」の集合を示している。
ここでは①から⑩まで10個の作品が応募されたと仮定する。それぞれの作品は、それぞれのクリエイターの視点で書かれている。
図2は、コンテストの中間選考が完了した状態を示している。
「基準A」は審査基準を示していて、今回のnoteコンテストでは藤原華さんが決めた審査基準に相当する。
「応募作品」と「基準A」の2つの集合が重なった領域が合格圏で、ここでは①②③の3作品が中間選考を「突破した作品」となった。
他方、重なっていない領域に存在する④から⑩の7作品は、残念ながら「落選作品」となってしまった。
さて、ここからが問題である。
落選してしまった④から⑩の7作品のクリエイターたちは今後どうすべきだろうか?
もし、「基準A」に納得するなら、このままカリスマたる藤原華さんについて行き、今後は審査基準に入るような作品を書くように精進してゆけばいい!
何しろ、藤原華さんは第一回創作大賞のグランプリ受賞の経験豊富なWeb媒体編集者なのだ。
少なくともWeb媒体においては、彼女の基準が正解に近いのだろう。
「クリックされなければ読まれない」
何となく、Web媒体の世界ではそうなだろうなと思える。
彼女について行き、彼女の要求に応え得るだけの才能が、もしあなたにあるとしたならば、Web媒体でのライターとして近い将来花開いているかもしれない。
それが、あなたにとってプロになる最短の道だと思われる。
彼女は審査基準まで公表して審査をしてくれる稀有な存在なのだ。
こんなチャンスそうそうないのではないか?
一方で、もし、「基準A」に納得できなかった場合はどうするべきであろうか?
それでも、自分の信念を曲げて「基準A」に従うべきか?
それとも、いっそのこと筆を折ってしまうのか?
いや、そんな必要はない!!
「基準A」に納得できなかったら、違うコンテストにチャレンジし、その審査基準である「基準B」に合わせればいいのだ。
下図で示すように、④⑤⑥の作品は「基準A」とは重なりを持たないが、「基準B」とは重なりを持っている。
基準は1つではないのだ!
そんなうまい話があるのかというのが疑問が湧くかもしれないが、自分はきっとあると考えている。
媒体や出版社、ジャンルが変われば求められる物はおのずと変わる。審査基準も変わってくるはずである。
事実、藤原華さんも上記記事に、次のような一文を追記している。
記事に書かれていたのは、『「この」コンテストで、「この」審査員が落とした理由』なのだ!
上図で言えば、「基準A」は絶対の基準ではないことを藤原華さんも強調しているのだ。
最初の記事で、「基準A」が絶対の基準であり、これからはみ出した作品は価値がないかのような誤解が広まってしまったので、このような追記を記事におこなったのだと自分は捉えている。
その意味では、藤原華さんも他のクリエイターさんの記事から学ばれたわけで、クリエイター間で相互理解が深まったようでよかったと感じている。
もし「基準B」が存在するとするならば、我々が取るべき戦略は明白だ。
自分に合った媒体・ジャンルなどのコンテストを探すのだ。
noteコンテスト「なぜ、私は書くのか」のように審査基準を明記しているコンテストは少ないであろうから、まずは受賞作品、選考通過作品、講評などを研究し、そこから傾向と対策を編み出すのだ。
そして、その「基準B」に合致する作品を生みだせばいい!
「コンテストで記事を書くからには、そのコンテストの審査基準に合わせて記事を書く必要がある」
藤原華さんが本当に伝えたかったのは、この単純にして極めて重要な事実だったような気がしてきた。
創作とは
創作とはなんだろうか?
今回noteコンテストの顛末を見ていて思ったのは、プロフェッショナルとアマチュアの違いだ。
自分のようなアマチュアは、自分の信念に従って自分の好きな時に自分の好きな記事を書いていればいい。そんな記事でも一定のスキを貰えるし、コメントもいただける。
自分などはそれで満足している。
しかし、プロフェッショナルは違う。
商業ベースに乗せるということは、利益を上げようとする企業活動の一部分であり、作品の内容や表現方法にも一定のレギュレーションを受けるのは当然のことだ。
その第一歩がコンテストなのだ。
上記で考えたように、コンテストにも基準があり、受賞するには最低限その基準を満たしている必要があるのだ。
これは一見窮屈に感じられるかもしれないが、商業ベースでおこなわれる芸術作品は全てそうだ。
商業ベースではないが、例えば短歌の場合は五七五七七の字数制限というレギュレーションがあり、その制約の中で意味のある文字を紡いでいく必要がある。
映画もそうだ。スクリーンからはみ出した表現は不可能だし、放映時間も2時間程度が適正とされ、10秒で終わる映画とか逆に1年かかる映画の製作はとうてい許されないだろう。
何でも自由というわけではないのだ。
だが、そのような制約があるからこそ、その制約を乗り越えて完成された作品は輝いて見えるのではないだろうか?
表現者ならば誰でも理想を持っている。
だが、それをストレートに出していいのはアマチュアだけで、プロフェッショナルは必ず制約を受けている。
そう思った。
だからと言って、お金をいただくために理想をすべて捨て去るのも絶対に違う。バランスが重要なのだ。
創作とは制約のなかで理想を貫くことだ!
そう強く思う。
noteで活躍しているクリエイターさんには、どうか理想を捨てることなくプロフェッショナルを目指す道を歩んで欲しいなと心から思う。
素敵な記事を書いているクリエイターさんを自分はこれからも応援したい!
記事紹介
この記事では、noteコンテストについて考えてみた。
こんなことを考えたのは、最近、めぐみティコさんの「無名エッセイストティコ、あなたにどうしても伝えたくて時間休を使って書きました。」という記事と、まちか先生さんの「だからWEB物書きはめんどくさい」という記事を読んだのがきっかけだ。
どちらの記事も、藤原華さんのナイフのように尖った中間選考記事に対するアンサー記事なので少々尖っている。いや、だいぶ尖っているかもしれない。
ヘタをすればケガをしてしまいそうだが、書かれている内容は温かい。
クリエイターたちへの愛に溢れている。
ド正論だ!
自分の生み出した作品は宝物であり、当然リスペクトされるべき対象だ。
めぐみティコさんの魂の叫びが聞こえてくる。間違いなく命を削って書いている。
noteには凄いクリエイターが棲んでいるんだなと改めて思う。
まちか先生の記事で好きなところは次のフレーズだ。
クリエイターたちへのエールだ。
そしてもう一つが次の叫び!
「モノサシ=審査基準は絶対のものではない。」
一般人にはうかがいしれない世界なので、業界関係者からの経験を踏まえたこのようなコメントには物凄く価値があると思う。
上記2つの記事が、noteコンテストについて様々考えるきっかけとなった。ご一読をお勧めする。
※藤原華さん、めぐみティコさん、まちか先生さん、記事を引用させていただき、ありがとうございました。
※この記事は、noteコンテストに関する個人的な見解を述べたものです。これが絶対的に正しいという主張ではなく、正解はクリエイターの数だけ存在すると考えています。相手の考えを尊重しつつ、自分の信じる道を歩んでいきましょう。
追記 2024.09.10
この記事を投稿したあと、藤原華さんがnoteコンテストに関する記事を投稿しています。
ご一読ください。
#幸せ増幅器
この記事は、高草木陽介さん提唱の#幸せ増幅器企画に参加してます。
この企画は誰でも参加自由とのことです。
(記事を紹介されても、されてなくてもOK!)
この紹介記事を読んでしまったあなた、幸せの輪を広げる活動に参加しませんか?
※この記事は、個人の見解を述べたものであり、法律的なアドバイスではありません。関連する制度等は変わる可能性があります。法的な解釈や制度の詳細に関しては、必ずご自身で所管官庁、役所、関係機関もしくは弁護士、税理士などをはじめとする専門職にご確認ください。
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