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Fラン大学廃止論に思うこと


玉石混交はFラン大学でも同じ

 最近再びFラン大学排除の声が上がっている。きっかけはどうやら靖國神社に対する元中国人留学生による不敬のようである。彼らの言動は、例えて言えば毛沢東氏が安置されている毛主席紀念堂に糞尿を撒く、悪戯書きをするようなものである。ゆえに、その言動を賞賛する者がどんなに独りよがりで身勝手な存在であるかや、日本や日本人に対する偏屈で面従腹背の隣人であるかが大変にハッキリと見て取れると言える。
 さて、そんな彼らはFラン大学を寄木として自国を脱出し、日本国や日本社会の支援を受けて大学教育を教授しながらその生活を成り立たせていた。このように一方で恩恵を受け取りながら、他方でそれを無に帰する反日感情の塊と化した事に対する憤りが、昨今のFラン大学排除の声となっている。
 Fラン大学で教鞭を執る経験から言えば、一部の留学生は大学院生も含めて日本に滞在し続けたいために大学生や大学院生という身分を求め、来日している事も事実である。そして、そのような本当に大学教育を受けたい訳ではない事を見越して、試験直前に解答を示して答案を作成させ、勉学の記録を捏造する不実な教員が存在する事も事実である。
 しかしながら、その一方で、自国をより良くするために他国の知見を学ぶために親兄弟や親戚中から資金を借りて来日したり、悪質なブローカーを通じて来日して勉学に励んでいる一部の留学生が存在する事も事実である。そして、勉強の仕方から教え始めなければならなかったり、日本語の作法から実践訓練しなければならなかったりという中で、全14回から15回という与えられた短期間と小テストやレポートをフル活用して「標準的な大学生」へ育成しようと誠実に取り組んでくださる非常勤の教員が存在する事も事実である。
 要するに、学生の側にも教員の側にも問題児は存在する訳であり、どちらかだけに問題に原因があるのではない。そして、この状況はFラン大学であろうが有名大学であろうが、程度の差こそあれ同じである。武漢コロナ流行に伴って遠隔授業を強いられた期間が長い人が多い年次ほど、この割合は悪い方へと傾いているように思われる。一般に人間は怠ける存在であると考えている私の目が曇っているからかもしれない点、ご留意いただきたい。

二極化する若者層

 Fラン大学排除の声が再燃している良い機会であるので、Fラン大学の現代的意義すなわち令和時代の大学教育に対する私の私見を一部披露し、読者諸賢の検討材料の一部にしていただこうと思う。
 年々その傾向が強まっていると感じる事は、受験生および入学生の人間力の二極化である。端的に言えば、他者の言葉を聞いて自分で考え行動できる人と、他者の言葉を聞かず又は聞いたふうに装って行動する人にハッキリと分けやすくなっている。後者は間接的に聞き取る他者の言葉に従って行動するから、そこには伝言ゲームの弊害が生まれやすいし、前者の同級生を獲得できない時は辛抱強く取り組むことを放棄しドロップアウトを簡単に選択する。思うに、これは何かの精神的な疾患を患っているのが原因ではない。小学生並みの、子どもの精神から成長していないからこその現象である。
 予め申し上げておくと、私には核家族が主流となり、鍵っ子を日常的に目にする現代において、両親をはじめとする保護者各位を非難する意図はない。多忙の中で子育てに対して後ろめたい気持ちが多かれ少なかれ持つのは誰もが経験する事だからである。昭和の時代、小中高の学校や教員がその肩代わりをしていた。それが平成の時代、令和の時代となるにつれ、学校や教員の役割が純粋に学びないし教育へ集中する一方で、家庭に投げ返してきたのをキチンと受け止めなかった事は、私も含めて全員の責任だからである。
 私が指摘したい事は、学校教育の中で達成すべきとされた教育すなわち社会性の確保が疎かになっていないかというところである。学校教育の中で身につける社会性とは、結局のところ人間力である。標準的な人間力を持つ学生は、他者の言葉を聞いて自分の中で復唱して考え、自分の意志に基づき行動する。そのため普通にやっていれば、Fラン大学のカリキュラムであっても有名大学のカリキュラムであっても単位を落とす可能性は殆ど無い。なぜならば、昨今の大学教育では文科省からの通達により平常点を含めるように指導があるため、期末試験一発勝負ではないからである。
 標準的な人間力を持っていない学生は、進級もままならないほど単位を落とす。バカだからではない。単純に他者の言葉を聞いていないから、あるいは聞いたことにしておいて後で周りの人間に質問すれば問題ないと勝手に決めつけ、自分の意志に基づき行動しようとしないからである。なお、周りの人間に聞くという自分の意志に基いているという反論は友人知人そして師を失うクズ中のクズの発言、詭弁であるから控える事をお勧めする。発話する者の言葉を直接に自分で受け止めていない以上、その言葉を自分の意志に繋げられていないから、そもそもそこには関連する自分の意志がない事に気づいていない事を自白し、自分勝手で他者に対してどんなに迷惑を掛けたとしても謝罪も反省もないのだろうなと見透かされるのがオチである。
 したがって、Fラン大学が高校までに受験生が学習したであろう勉学の知識を問う出題形式から、受験生その人がどの程度の人間力を持っているかを問う出題形式へと変化している事は合理的である。そして、個人的に選抜試験で課すべき事は「国語力」と「算数力」だけで十分であろうと考える。なぜなら、経験則上、人間力が低かったとしても国語力が算数力のいずれか片方でも確認できる大学生や大学院生は、所定のカリキュラムを修了する頃には社会人として送り出せる人間力を持つ程度に必ず成長するからである。

Fラン大学こそ必要である

 もちろんFラン大学の中にも問題はある。定員数の確保を至上命題とし、学生を送り込みたい日本語学校やブローカーと協力するという、ある意味、毒饅頭を敢えて喰らう大学は確かに存在する。また、そこで懐を肥やす教職員の存在も、哀しいことに事実でないとは言えないらしい。さらにはそんな学生達を一律「日本に出稼ぎに来ただけの実質労働者である」という想定で対応し、勉強するはずがないから正真正銘のテストをしても無駄であると諦めながら授業を担当する講師の存在も、事実である。
 一つの理想としては、実質上出稼ぎ目的の留学生だけの大学や大学院を作り、そこへ集約してしまう政策もあろう。普通でない学部や普通でない大学院を受け皿として用意し、かつ、そんな普通でない学部や大学院においては修了を認めず、満期退学処理をすれば良い。こうすれば、学生にとっても大学・大学院にとっても、そして送り出す保護者や組織にとっても三方一両損な結果を得られる。
 しかしながら、良識のある人であれば、この理想がどんなに普通でないかを感じ取り、嫌悪感を抱くのではないか。大学や大学院の方針に従い、上司の指揮命令に服し、そして他者の意図との妥協点を探りながら普通の学部や大学院を維持しようと身を粉にして自分に課せられる課題と誠実に向き合う教職員を少なからず私は見ている。
 口を揃えて言うこと、見ていることは共通している。すなわち、潜在的学習意欲のある若者かどうかである。私たちは、潜在的学習意欲のある若者を教育し、社会にとって有用な標準的な社会人一年生として送り出し続けたい。これは有名大学では不可能なことであると言える。

潜在的学習意欲のある学生とFラン大学の責務

 潜在的学習意欲のある学生とは、凡そ大学まで受験らしい受験を経験せず、試験という試験勉強もした事がない若者をいう。いわゆる受験戦争の洗礼を受けていないから、試験日までの過ごし方や対策の立て方、その遂行の仕方も知らない。一夜漬けは勉強の仕方を知っているとは言わないから、勉強の仕方さえ知らない。そのため平気で試験問題の内容を具体的に教えて欲しいと懇願するし、むしろ教えてくれるのが当たり前であるとさえ考えている。
 国語力がないから相手の話を十分に理解できないから、勉強の仕方が分からない。算数力がないから提示される締切日から逆算して対策や計画を立てられず、遂行もできないから、一夜漬けしかやり方が見つけられない。そして後悔しても直ぐに忘れ、同じ事を繰り返してしまう。そこには潜在的学習意欲を見出すことができない。
 一見すると、このような若者は見切ってしまった方が効率的であるとさえ判断しかねない。しかしながら、それは短絡的な社会人を増殖させる事と直結し、それは結果として社会不安を煽り、社会ないし国家の転覆さえ現実的なリスクとして把握しなければならない事態をもたらすと私は考える。所謂石丸構文に夢中になる有権者や、その場限りで取り繕う政治屋レンホーを指示する有権者らのSNS上での言動、そして選挙期間中の無法地帯を作り出す行動を見て憂慮することは、自分で考え抜く事ができないから耳障りの良い方に近づいていくしかない無責任な存在が一定規模になっているという事実である。
 インターネット上を、情報はパケット単位で送受信されるものだが、どのような経路でパケットが進んでいくかと言えば、現時点で確かな事は、その時点で最短距離となる経路を選んでパケットが送受信するというぐらいである。つまり、パケットは目の前に並ぶ次の行き先の中で最短の処を選んで進むだけなのである。これは、その時が良ければそれで十分であるという刹那的で、かつ、そこに山があるから登るというような独善的な行動である。
 コンナヒトタチは単純労働ならば十分に就労できるだろうが、他者のとの協働作業というような複雑労働には不向きである。そして、内なる国際化が否応なく進行中の地域社会や他国との協調作業となる国家、国際社会との協働いうような主権者としての振る舞いが求められる参政権の行使には全く不向きである。このように断言できる事実は、民主党政権が十分に証明済みである。
 一般に大学の責務の一つは、社会へ貢献する事である。東京大学であれば、100年に1人の優秀な人材を育成すればそれで社会貢献した事になるかもしれない。しかし、Fラン大学が負う責務はそんなに簡単なものではない。潜在的学習意欲のない若者に対してその意欲を喚起し、大学4年間又は大学院2年間、3年間という短い時間の中で、社会にとって有用な標準的な社会人一年生へと教育し、送り出す事が、その責務とされなければならない。

受験生、保護者様、世間様にお願いしたいこと

 受験生である高校生の皆さんには、熱量の高い大学や教職員の居る大学への進学を、ひょっとすると自分のレベルからすれば物足りないかもしれないが、選択肢に加えて欲しい。大学受験の勉強を通じて本命の大学の合格を勝ち取れたら、その合格校へ進学すればよい。合格を得るという事は、その大学が普通にやっていれば4年で学士修了できる基礎学力を有する事を認めてくれた証だからである。一方で、受験に敗れた時は、熱量の高いFラン大学で、4年後に社会人としてリベンジする。あるいは追いつき、追い越すために根本から生まれ変わる覚悟をもって進学すれば、人生捨てたもんじゃない事を実感するであろう。
 保護者の皆さんには、Fラン大学を厳しい目で見ていただきたい。前述したとおりの責務をFラン大学は担っている。そして多くの保護者様は、子女の進学に対して投資する立場にあるはずだからである。投資分は回収すべきであるし、無駄な投資にならないように物を言う投資家であって欲しい。高校までと違って大学の教職員との間に定期の三者面談は存在しないが、言い換えれば時間調整さえできれば、いつでも三者面談ができるという事だからである。学生を、大学と保護者様とで包むように育てていく事を理念とし、実践する上で、保護者様からの厳しい目は必要不可欠である。
 そして、世間様にはFラン大学排除の声を上げる際には、同時に潜在的学習意欲のない若者の受け皿をどうするかについて、代替案も同時に示して頂く事をお願いしたい。示される代替案の一部はFラン大学で実施可能かもしれないし、代替案なき主張は日本にとって失われた十年を再び再発させる事になるだろうからである。戦後の復興を支え、各国と比べて時間的にも資金的にも、そして人的にも余裕を蓄えて頂いた先人たちの遺産を、現在の日本は使い切ってしまったと私は感じている。そうであるからこそ、もはや無駄な時間も金銭も、そして人材も浪費できないのではなかろうか。(了)

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