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ショパン家へようこそ!1:エミリア・ショパン

推しの家族の情報は必修科目

 久しぶりの記事になってしまった。推しであるフリデリク・ショパンの友人を探る試みはいくつかこなしてみたが、家族については必修科目であるが故になかなか手が出せないでいた。しかし、今これを書いている4月10日は、ショパン家の末娘、エミリアの命日である。誕生日じゃないのか、というツッコミはさておき、ようやく家族の調査に手をつけてみたのでお付き合いいただけたらと思う。

エミリア・ショパン(Emilia Chopin)
1812年11月9日ワルシャワ生/1827年4月10日同地没

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1826年から27年にかけて描かれたとされるエミリアの肖像画。作者は不明。フリデリク・ショパン博物館所蔵。

末っ子エミリアちゃん

 先ほども書いたが、エミリアはショパン家の末娘。誕生した年の12月15日に緊急洗礼、正式な洗礼式が1815年6月14日に聖十字架教会で行われた。代父はクサヴェリ・ズボインスキ、代母はフランチシュカ・デケルト。当時、ショパン家はサスキ宮の左翼に住んでいた。父ミコワイがワルシャワ高校で低学年のフランス語教師を担当しており、サスキ宮は学校と、そこで働く教授たちの住居があったからだ。1817年3月、一家はカジミェシュ宮に居を移しているが、ワルシャワ高校もカジミェシュ宮に移転しているので、すぐ近くに教授たちが住んでいるという環境に変わりはなかった。

ショパン家の「神童」

 エミリアは賢い子だった。家庭で教育を受けたのか、寄宿舎にいたのかは断定出来ていないが、年齢以上のレベルに達しており、優秀だったことは確かなようだ。更に、明るく、陽気で、周りの人を笑わせる才能に長けていた。賢くて、性格もいいなんて、皆に愛されないわけがない。ちょっとフリデリクと似ている部分がある気がする。まぁ兄妹なのだから当然かもしれないが。
 彼女は幼い頃から文学の才能を発揮し、韻文を作ることもしていたし、フリデリクとの共著で《失策、あるいは見せかけのペテン師》という喜劇を書いたこともあった。これは、1824年のミコワイの誕生日のために作られ、寄宿舎で披露されたが、エミリアやフリデリク、次女のイザベラ、寄宿舎の生徒らが役を演じた。ガリガリのフリデリクが太っちょの市長役を好演したらしい。筆者の見解ではフリデリクは文学青年ではなかったが、妹と一緒に皆を楽しませる物語を考えるのはとても楽しかったのではないだろうか。二人は「文芸娯楽協会」というグループを結成、フリデリクが会長、エミリアは秘書となり、寄宿舎のメンバーも数人仲間に加わった。家庭内でこんな活動が出来るなんて、ちょっと想像するだけでワクワクする。1826年のミコワイの誕生日には、エミリアがお祝いの詩を書き、フリデリク、ルドヴィカ、イザベラが署名を入れた自筆稿は、現在フリデリク・ショパン博物館が所蔵している。
 更に、姉ルドヴィカと共に、ドイツの牧師で教育者であるクリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマンの教訓的な小説をポーランド語に翻訳する作業にも取り組んでいたようだ。これはエミリアの死後、作者の名前を伏せて出版された(作者をルドヴィカとエミリアとする説と、ルドヴィカとイザベラとする説がある)。
 エミリアは、サミュエル・ボグミウ・リンデ(ワルシャワ高校の校長)の娘、ルドヴィカと仲が良かったそうで、手紙をやり取りしており、そのうちの何通かがフリデリク・ショパン博物館、ワルシャワ音楽協会の所有となっている。

少女を蝕む病、飲泉治療の旅

 1826年夏、結核を患っていたエミリアはチェコとの国境に近いライネルツ(ポーランドではドゥシュニキ・ズドルィ)に飲泉治療へ向かう。1802年に最初の湯治施設の建設が始まったこの地は、十数年で温泉地として栄えるまでに至る。ショパン家の家庭医の1人であったマルチュの勧めで、エミリアは、家族ぐるみで繋がりの深いルドヴィカ・スカルベク夫人の付き添いのもとライネルツに滞在した。
 実はほぼ同じ頃、フリデリクも母ユスティナと共にライネルツに逗留している。お世辞にも体が丈夫とは言えないフリデリクも、同じく飲泉治療が目的であった。そして更に長女ルドヴィカは、フリデリク・スカルベク(ルドヴィカ・スカルベクの息子、フリデリクの代父)とその妻、息子と共に、ライネルツやその近辺を旅行中であった。ショパン家子供たち3人は、別行動でありながら、ライネルツの地で顔を合わせることができたというわけだ。エミリアは、現存する患者名簿によれば7月23日から8月30日までこの地で療養した。

愛され惜しまれ…

 フリデリクは1826年3月12日、ヤン・ビャウォブウォツキに宛てた手紙の中で、エミリアの病状、治療の様子などを伝えている。それによれば、4週間も咳・吐血をしており、マルチュが瀉血を行い、あらゆる種類の治療(軟膏、薬草などなど…)が施されたという。その間、何も食べることが出来なかったため、エミリアは弱々しく痩せ細ってしまったようだ。結核は当時、不治の病とされていた恐ろしい病(結核菌はまだ発見されていない)。エミリアが書いた詩には、10代前半の少女のものと思えない、胸をギュッと掴まれるようなものがある。

『死ぬことは私の天命
死は少しも怖くはないけれど
怖いのは 貴方の
記憶の中で死んでしまうこと』
(『決定版 ショパンの生涯』 p.57より引用)

 試作の才、皆に愛される人柄……神にも愛され過ぎたのか、エミリアは1827年4月10に天に召された。今はワルシャワのポヴォンスキ墓地に眠っている。墓碑に刻まれている言葉が、個人的にとても好きで、翻訳が素晴らしいので引用させていただく。

エミリア・ショパン
生涯十四度目の
春にうつろいぬ
実を結ぶ
美しき
望みを咲かせし
花の如く
(『決定版 ショパンの生涯』 p.58より引用)



参考、引用文献
ゾフィア・ヘルマン、ズビグニェフ・スコヴロン、ハンナ・ヴルブレフスカ=ストラウス著、関口時正、重川真紀、平岩理恵、西田論子訳『ショパン全書簡 1816~1831 ポーランド時代』岩波書店、2012年
バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著、関口時正訳『決定版 ショパンの生涯』音楽之友社、2001年
Narodowy Instytut Fryderyka Chopina
https://chopin.nifc.pl/pl/chopin/osoba/6368_chopin_emilia(閲覧日2021.4.10)
WIKIPEDIA(ポーランド版)
https://pl.wikipedia.org/wiki/Emilia_Chopin(閲覧日2021.4.10)

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