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ショパン友人帳3:ドミニク・ジェヴァノフスキ

教えてくれショパンの人間関係

 フリデリク・ショパンの友人について、何人かは名前くらい挙げられるとは思うが、まだまだまだまだ知識が足りない筆者が、記事を公開するという負荷をかけて、何より自分のためにちょっと詳しい友人帳を作る……そんな試みももう3回目となった。今回は、フリデリクの人生の中の楽しい記憶として、また彼の音楽を形成していく上で重要な経験を与えてくれた「シャファルニャでの夏休み」の重要人物だ。

ドミニク・ヤン・ヘンリク・ジェヴァノフスキ(Dominik Jan Henryk Dziewanowski)

1811年シャファルニャ生/1881年6月8日ジャウィン没
愛称:ドムシ

分かってきたぞ出会いのパターン
 フリデリクとドミニクが出会ったのは、おそらくショパン家の寄宿舎にドミニクがやってきた時だろう。ドミニクの実家はシャファルニャという村にあり、ワルシャワから200キロ弱離れている。1823年~28年、ワルシャワ高校に在籍しているこの期間にドミニクは寄宿舎に住んでいた。フリデリクもちょうど同じような時期にワルシャワ高校へ入学しているので、23・24年度、24・25年度に同じクラスに在籍しており、2人は親しくなる。

ショパン家とジェヴァノフスキ家、交流のはじまり
 ドミニクの父イグナツィ・アレクサンデル・ユリウシュ・ジェヴァノフスキ(1779~1854)は、フリデリクの父親であるミコワイの教え子だった。つまり、フリデリクとドミニクは、父親同士が既に縁があったのだ。ミコワイがまだ独身だった1791年~1800年頃の期間の数年(文献によって多少ズレがあり、おそらく断定は出来ていない)、シャファルニャでジェヴァノフスキ家の3人の息子たちの家庭教師として働いていた。
・イグナツィ・アレクサンデル・ユリウシュ
・ヤン・ネポムツェン(1782~1808)
 後にフリデリクの姉ルドヴィカの代父となる。
・ステファン
さらに、ジェヴァノフスキ家には娘も2人いる。
・ルドヴィカ・ヴィクトリア・エヴァ・ジェヴァノフスカ(1775~1880)
・ユゼファ・ジェヴァノフスカ(1804~1824年以降だが不明)
 また、彼らの従弟にあたるピョートル・パヴェウ(1798~1836)は、ワルシャワ高校に通っていて1811年~17年の間ショパン家の寄宿生でお世話になっていた。この段階で既に家族ぐるみの付き合いになる予感しかしない。
 1792年以降、シャファルニャはジェヴァノフスキ家が領主として管理していた。ユリウシュは1815年に、父からシャファルニャの地を受け継ぐことになる。彼は2度の結婚を経験しており、最初の妻ヴィクトリアという女性との間に、1811年ドミニクが産まれた。再婚した相手はホノラータ(1803頃~1869)だということは分かっているが、何年頃に再婚したのかは今回の調査では特定できなかった。無念。ドミニクは継母と8歳しか年齢が違わないのか……。
 「ショパン友人帳1:ヤン・ビャウォブウォツキ」でご紹介した、ヤンの実家があるソコウォーヴォはこのシャファルニャと隣接しており、ヤンの継父アントニ・ヴィブラニェツキ他数名とユリウシュは親しくしていた。なんとそのことが、政治的地下活動の疑いをかけられ、1833年に逮捕されてしまう。ワルシャワで収監までされ、間もなく釈放されるものの、それ以降警察の監視下に置かれることとなる。なかなかに波乱万丈の人生ではあるが、1834年11月8日、フリデリクの妹イザベラの結婚式では証人となり、2人の結婚を祝福した。

ショパン好きの間では有名な「シャファルニャ」
 さて、フリデリク・ショパンについて何か本を読んだりしたことがある方ならば、シャファルニャという地名は聞いたことがあるのではないか。
 フリデリクは、1824年、25年の夏休みをこのシャファルニャで過ごしている。ここで生まれた『シャファルニャ通信(KURYER SZAFARSKI)』は、当時ワルシャワで広く読まれていた日刊新聞『ワルシャワ通信(KURYER WARSZAWSKI)』に真似て、フリデリクが日々の出来事などを新聞記事のようにして書いたもの。題字なども凝っていて面白いし、都会っ子フリデリクが田舎暮らしで見聞きしたものを細かに記述しているのも興味深い(『シャファルニャ通信』の内容をチェックする「検閲官」はドミニクの伯母ルドヴィカの役目だった)。田舎の風景、行事、民族音楽…この滞在がフリデリクに与えたものは数多く、それは彼の音楽にも影響している。
 今や偉人となったフリデリクにとって非常に重要な経験であった、シャファルニャ滞在に大きく関わっているのが今回取り上げるドミニク。関わっているもなにも、「お父さんの領地」。やだ…フリデリクの周りお金持ちのおぼっちゃんだらけ…こわ…。ドミニクは普段はワルシャワにいるので、夏休みが始まる前に、ルドヴィカが甥っ子ドミニクとフリデリクを迎えにやって来て、シャファルニャに連れ帰るのだ。友達と過ごす夏休み、どんなに楽しいだろうか。馬に乗ったり、少し遠出したり……ドミニクにとっても、様々な楽しい思い出が詰まった夏休みになったことだろう。フリデリクは演奏を披露したり、ルドヴィカやホノラータと連弾を楽しんだりしたこともあるようだ。
先に述べたようにシャファルニャとソコウォーヴォはとても近い。夏休み中はヤン・ビャウォブウォツキとフリデリクも行き来していたらしく、ドミニクもみんな一緒に遊んだこともあるのでは、と想像すると可愛くて(ヤンとドミニクは父親同士交流があったんだし…)、こちらまで幸せな気持ちになる。ドミニクには兄弟がいたという記述は今のところ見当たらず、一人っ子だったと思われるので、兄弟が出来たみたいで楽しかったかもしれない。なんて尊い少年たちの夏。
 ドミニクの父ユリウシュにとっても、かつての家庭教師が営む評判の良い寄宿舎に息子を預け、夏休みには恩師の息子を自分の領地に招待する……素晴らしい時間だったのではないだろうか。

学校でのドミニク、そしてその後
 フリデリクとワルシャワ高校で同じクラスだった時があるのは前述したが、1824年の第4学年終了時には、フリデリク、ヴィルヘルム・コルベルク、ユリアン・フォンタナ、ヤン・マトゥシンスキらと共に成績優秀者として表彰されている。つまり、このメンバーは互いに交流があったと思われる。フリデリクの手紙の中で、ドミニクがヴィルヘルム・コルベルクに宛てた手紙の存在に触れているという事実もある(発見はされていない)。ついでと言ってはなんだが、ドミニクもジヴニーにピアノを習っていたようだ。腕前については特に言及が見つからなかった、つまり…?
 1828年、ワルシャワ王立大学法学・行政学部に入学し、さらに哲学学部で数学を学んだ。十一月蜂起に参加、蜂起が失敗に終わった後ベルリンへ渡り、大学で勉強を続ける。33年にはポーランドへ戻り、38年に父ユリウシュから譲り受けたシャファルニャに住むことになった。結婚した年は定かではないが、ユゼファという妻を迎え、ツェツィリアという娘も産まれた(フリデリクの手紙からもう1人子供がいたことがうかがえるが、詳細は不明)。しかし、50年に謀議活動に参加したことで逮捕され、警察の監視下に(なんと父親と同じような展開に…)。そんな困難も跳ね除け、最終的にはプォツク県の知事も務めた後、1881年に天に召された。

もうだいぶややこしい
 ここまでややこしくなってしまったのなら、少しばかり割愛したところで変わるまい。せっかくなので書いておきたい情報を追加しよう。ドミニクの娘ツェツィリアはマテウシュ・チェホムスキと結婚、6人の子供をもうける。夫のマテウシュにはルドヴィクという兄弟がおり、彼はフリデリクの姉ルドヴィカの娘、ルドヴィカと結婚する。
筆者も頭がこんがらがってきたが、決していたずらに話をややこしくしているわけではない、これにはわけがあるのだ…あと少しなのでお付き合いいただきたい。
ルドヴィク・チェホムスキとルドヴィカ夫妻の娘、ラウラ・チェホムスカはフリデリクに関わる品を所持していた。そして、第二次世界大戦中そのほとんどの管理をしていたのが、マテウシュ・チェホムスキとツェツィリアの子の一人、レオン・チェホムスキだったのである(つまりラウラとレオンはいとこ同士ということになる)。
 ややこしいながらも、フリデリクゆかりの品々は、友の子孫に守られ、その半数が1950年終わりごろから60年代はじめ、ついにショパン博物館の手に渡ったのであった。


気まぐれ後記
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
前回のコルベルク家に引き続き、家族の記述も多めになってしまいました。それだけ、この時期のフリデリクの友人は家族ぐるみの付き合いが多く、拾っていくのが大変です。今回は特に、パパ世代から関係があったので…。相関図というか、家系図というか、そんなものを作った方がよさそうだと思いました。かなり複雑になってしまい、申し訳なく思っております(何度か混乱に陥りました…)。
ショパン友人帳は自分のためのメモのつもりでもあるので、整っていなくてもとりあえず書き終えたら投稿してしまっていますが、いずれ分かりやすいように整理していけたらいいなと思っています。

おまけ
フリデリクが滞在していた屋敷(もちろん建て直されたものですが)は現在「ショパンセンター」となっており、コンサートやイベントが開催されているようです。子供や若者のためのショパンコンクールもあるんだとか。お屋敷の前にはフリデリクの記念碑があります(画像提供)。

シャファルニャの像

参考文献
ゾフィア・ヘルマン、ズビグニェフ・スコヴロン、ハンナ・ヴルブレフスカ=ストラウス著、関口時正、重川真紀、平岩理恵、西田論子訳『ショパン全書簡 1816~1831 ポーランド時代』岩波書店、2012年

ピョートル・ミスワコフスキ著、平岩理恵訳『ショパン家のワルシャワ 原資料によって特定されたワルシャワ市内ショパン家ゆかりの地一覧』ポーランド国立フリデリク・ショパン・インスティトゥト、2014年

堀内みさ『ショパン紀行 あの日ショパンが見た風景』東京書籍株式会社、2005年

Narodowy Instytut Fryderyka Chopina
https://pl.chopin.nifc.pl/chopin/persons/detail/id/6608(閲覧日2020.6.20)

Baza Wiedzy CHOPIN 2010
http://bazawiedzy.chopin2010.pl/pl/osoby/rodzina-i-krag-towarzyski/entry/4674-dziewanowski-dominik-jan-henryk/nocache.html

WIKIPEDIA(ポーランド版)
https://pl.wikipedia.org/wiki/Ignacy_A._Juliusz_Dziewanowski

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