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ショパン友人帳2:ヴィルヘルム・コルベルク

知りたいショパンの人間関係

 フリデリク・ショパンのモンペである筆者がショパンの交友関係をギラギラと調べるシリーズ第2弾。今回ご紹介するのは、ワルシャワっ子のおぼっちゃん。なぜ今回この人物なのかというと、誕生日も命日も6月だったからである。

ヴィルヘルム・カロル・アドルフ・コルベルク(Wilhelm Karol Adolf Kolberg)

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1807年6月13日ワルシャワ生/1877年6月4日ワルシャワ没
愛称:ヴィルシ

2人の出会い
 1820年、ヴィルヘルムが一家でカジミェシュ宮に越してきた。ショパン家は既に1817年、カジミェシュ宮の別棟、現在ポレクトルスキ棟と呼ばれる建物の中央部3階に住んでいた。コルベルク家は同じくポレクトルスキ棟の1階に居を構える。
 ヴィルヘルムの父ユリウシュは1817年にはワルシャワ大学で測量法などの講義を受け持っており、フリデリクの父ミコワイはワルシャワ高校でフランス語を教えていた。ワルシャワ高校がカジミェシュ宮に移った際、ワルシャワ王立大学と組織的に合併し、ショパン家もコルベルク家もこのカジミェシュ宮に引っ越してくることになったのだろう。この合併が、フリデリクとヴィルヘルムを出会わせてくれたのかもしれない。
 実際の初対面がいつなのかは分からないが、少なくとも2人の友情が始まったのは、1820年からだと考えて良いだろう。

コルベルク家のメンバーを紹介するぜ!
 今回取り上げるのはヴィルヘルムなのだが、コルベルク家はショパン家と関わりが深いので、大まかにだが家族ごとご紹介しようと思う。

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 まずはコルベルク家の大黒柱ユリウシュ(1776~1831)。ドイツ系のポーランド人で、ベルリンで学んだ後、地形調査技師、税関吏、等々の職で経験を積み、「ワルシャワ大公国の地図」、ポーランド王国などの郵便地図や旅行地図を編纂した。その地図はショパン家も使用したと言われている。友達のお父さんが作った地図使うなんて、ねぇ、そんなこと…ある…?
 そんなユリウシュと結婚したのがプロイセン貴族出身、カロリーナ・フリデリカ・ヘンリエッタ・メルクール(1788~1872)。2人の間には6人の子供が産まれたが、成人したのはヴィルヘルム含め4人だった。長女ユリア(1810~1817)、四男グスタフ・アルベルト・カロル・ルドルフ(1821~1823)は幼くして亡くなっている。
 ヴィルヘルムはコルベルク家の長男。ワルシャワ高校を卒業後1825年からは砲弾・工学基礎学校(ミコワイはこの学校でフランス語を教えていた)、ワルシャワ王立大学などで学ぶ。この時点で既にめちゃくちゃ勉強しているじゃないか、と驚かされる。十一月蜂起にも参加したが、最終的に父と同じく、測量や地図製作などに携わった。鉄道運輸を学ぶためヨーロッパ各地を訪れたりもしている。1841年にエミリア・カロリーナという女性と結婚、9人の子をもうけるも、3人は早世してしまった。ヴィルヘルムは生涯の中で優れた論文も多数執筆していたが、そのほとんどは1944年のワルシャワ蜂起で失われてしまったようだ。

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上の写真は次男ヘンリク・オスカル(1814~1890)。民族文化などの研究家であり、作曲家でもあった。1842年に発表された『ポーランド民謡集』は、集めた民謡をいわゆる「普通の」調(ト長調、ハ短調など)に直し、ピアノの伴奏もつけて編曲したため、本来の楽曲が持つ独特の響きが失われるとしてフリデリクは「後々研究する人の邪魔になるから、こんなんならない方がマシ。(意訳)」とバッサリ。その後、オスカルは30巻を越える民族文化(習慣や伝説、音楽や舞踊など)についての本を残した(こちらでは民謡もオリジナルに沿ったかたちで掲載されていたようだ)。彼は、ショパンが亡くなったすぐ後に回想記、1871年に自伝を世に出している。墓はクラクフのラコヴィツキ墓地(下の写真・Wikimedia Commonsから)。

オスカルコルベルクの墓

 
 三男アントニ(1815~1882)は画家。宗教画、人物画などを描いた。1832年にショパン家のサロンの様子を描いており(上画像)、当時ショパン家がどんな空間で生活していたか分かる貴重な資料だ。37年から40年にはベルリンでも美術を学び、ポーランドへ戻った。後に奨学金を得てイタリアへ渡り、その帰りにパリのフリデリクを訪ね、48年にフリデリクの肖像画を手掛けた(下画像)。残念ながら原画は火事で焼失。現在は、原画から作られた模写をショパン博物館が所蔵している。

アントニ画ショパン家サロン

アントニ画ショパン

 四男ユリウシュ・アドルフ・アレクサンデル(1818~1843)は、コルベルク家の資産管理をしていたようだが、親兄弟が有名人で色々大変なこともあったのだろうか、なんか早死にだし……とあれこれと考えてしまう。

フリデリクとヴィルヘルム
 2人は1820年に出会い、23・24年度、24・25年度にはワルシャワ高校で共に学んだ。1824年の試験では、フリデリクとヴィルヘルムは二人とも成績優秀賞を得ている(他に、ユリアン・フォンタナ、ドミニク・ジェヴァノフスキも受賞)。同じ建物の1階と3階に住んでいるのだから、仲良くなった2人にとって素晴らしい環境だっただろう。毎日会って一緒に遊んでいたらしい。何をして遊んでいたのだろう、ああ、気になる。
 1827年にショパン家はチャプスキ=クラシンスキ宮へ、29年にコルベルク家が、オボジナ通りへと住居を移したが、距離としてはめちゃくちゃ近い。目と鼻の先である。フリデリクは頻繁にコルベルク家を訪れていて、ヴィルヘルムの記憶によれば、一冬の間、1週間に3日やって来ていたようだ。
 そんなわけで、顔を合わせられていた二人の間では手紙のやり取りがあまりない。フリデリクからヴィルヘルムへの手紙は、1824年夏休みを過ごしていたシャファルニャから書かれたもの、26年に療養のために滞在していたライネルツから書かれたものしか、今のところ内容を知ることが出来ない。オスカルの証言では、あと2通ほど、フリデリクからヴィルヘルムに宛てた手紙が存在したというが……ひょんなことから発見されないだろうか。

作曲家としてのフリデリクのそばで
 前述した、残っている手紙のうちの1通、ライネルツからの手紙に絡めてご紹介したいことがある。フリデリクがライネルツへ出発する数日前、ヴィルヘルムと共にロッシーニの歌劇《泥棒かささぎ》を一緒に観に行っている。そして、翌日ヴィルヘルムに宛てて、その歌劇のアリアによる《ポロネーズ 変ロ短調》を贈ったのだ。自筆譜は残っていないが、オスカルによる写譜の写真を複製(ややこしい)したものがある。一緒に観劇した次の日、その中の曲をモチーフに使った曲をプレゼントされる?そんなこと…ある…?
 それ以外にもヴィルヘルムは、24年に《マズルカ 変イ長調》(op.7-4)、29年に《ワルツ ロ短調》(op.69-2)の自筆譜を贈られた(後者のワルツはジヴニーの写譜と言われている)。フリデリクに音楽的にも信頼されていたということだろうか。羨ましい話だ。また、《マズルカ ト長調》(53番)、《マズルカ 変ロ長調》(52番)も自筆譜をフリデリクからもらっていて、それを元に印刷譜を出版したこともあった。

《マズルカ 変イ長調》(op.7-4)
《ワルツ ロ短調》(op.69-2)
《マズルカ 変ロ長調》
《マズルカ ト長調》

ありがとうヴィルヘルム!
 ヴィルヘルムの回想は、時にフリデリクを交えた仲間たちの楽しいエピソードを教えてくれる。オボジナ通りのコルベルク家では、週に一度、夜に英語のレッスンがあったという。フリデリクとユリアン・フォンタナはコルベルク家へ訪ねて行って、ヴィルヘルムと共に英語を習っていた。レッスンの担当は、当時のワルシャワで人気があったという教師、マカルトネイ。どうやらこの先生、太っちょで酒飲みだったらしい。そして、レッスン料を求める様子がとても面白かったので(一体どう面白かったのか気になるところだ)、フリデリク、ヴィルヘルム、ユリアンの3人はふざけてめいめい支払いを断り、その楽しい時間を引き延ばしていたという。愛すべき悪ガキたちである。このレッスンはとても楽しいものであったらしく、面白いことの発端は常にフリデリクであったとヴィルヘルムは思い出を語っている。そういう情報欲しかった、ありがとうヴィルヘルム!
 最後に。ヴィルヘルムが持っていたフリデリクに関わりのある品はどうなったかというと、彼は自分が亡くなる前に、イザベラ・バルチンスカ(フリデリクの妹)に譲ったという。



気まぐれ後記
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
コルベルク家はポーランドの文化等に貢献している人物が多かったので、第1回のヤン・ビャウォブウォツキとは情報量が段違いでした。いやぁ、有名人の友達には有名人がいるものだ…とため息が出てしまいました。
特に、次男のオスカルは、ポーランド語のウィキペディアでの情報もかなり充実していました(ヴィルヘルムの数倍…)。それによれば、オスカルはワルシャワの福音派アウグスブルク墓地の、ヴィルヘルムと両親の隣に眠っているそうです。

さて、最後にちょっとしたおまけ。ヴィルヘルムが書いたものがこちらで見られるそうです。
http://hint.org.pl/kat/BN=Wilhelm+Kolberg
ポーランド語ですが。鉄道路や測量についての論文を読むことができます。ちなみに筆者は読めていません……。
それと、これは自分の記事の宣伝ですが、ヴィルヘルムに宛てた数少ない手紙の冒頭部分を、「ショパンの手紙催促・文句集めました」で取り上げているので、よろしければこちらもご覧いただけたら幸いです。
それでは、また次回もお会いできることを願って。


参考文献
ゾフィア・ヘルマン、ズビグニェフ・スコヴロン、ハンナ・ヴルブレフスカ=ストラウス著、関口時正、重川真紀、平岩理恵、西田論子訳『ショパン全書簡 1816~1831 ポーランド時代』岩波書店、2012年

ピョートル・ミスワコフスキ著、平岩理恵訳『ショパン家のワルシャワ 原資料によって特定されたワルシャワ市内ショパン家ゆかりの地一覧』ポーランド国立フリデリク・ショパン・インスティトゥト、2014年

小坂裕子『作曲家 人と作品シリーズ ショパン』音楽之友社、2004年

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著、関口時正訳『決定版 ショパンの生涯』音楽之友社、2001年

Narodowy Instytut Fryderyka Chopina
https://pl.chopin.nifc.pl/chopin/persons/detail/id/6307(閲覧日2020.6.12)

WIKIPEDIA(ポーランド版)
https://pl.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Kolberg(閲覧日2020.6.12)

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