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ショパン友人帳5:コンスタンティ・プルシャク

久しぶりの友人調査

 前回の記事から随分と時間が経ってしまった。断じてショパン活動を怠っていたわけではない。今回調査したい友人はショパンの数多い親友の一人、コンスタンティ・プルシャクだ。

コンスタンティ・ヤン・ユゼフ・イェジー・プルシャク(Konstanty Jan Józef Jerzy Pruszak)
1808年3月1日ワルシャワ/1852年11月1日同地
愛称:コストゥシ、コット、コチョ

何よりもまず

 3月1日生まれ?フリデリクと同じじゃないか!フリデリクの誕生日は諸説あるが、本人は3月1日としていたようなので、何気ない会話の中で誕生日が同じだと分かった時にどんな反応を見せたのか気になるところだ。それと、愛称がどれも可愛い。フリデリクも手紙の中ではだいたい愛称で呼んでいて、可愛い。

出会いは……

 ワルシャワ生まれのコストゥシだが(筆者も愛称で呼ぶとしよう)、両親がワルシャワを留守にしている間、ショパン家の寄宿舎に住んでいたらしい。フリデリクの友人の中では珍しいケースだ。いつ、どのくらいの期間寄宿舎にいたのかは分からなかったが、フリデリクとの出会いはその時なのだろうか。寄宿舎にいたということはコストゥシもワルシャワ高校の生徒だった。1820年から在学しており、フリデリクの1学年上だったようだが、1825/26年度の時には第6学年生としてフリデリクと同学年になる(当時のシステムで、大学に進学する者は第6学年を繰り返すのが義務であった)。ショパンの無二の親友、ティトゥス・ヴォイチェホフスキとは同い年。学年も同じで友人同士だったようだ。

プルシャク家とは!

 コストゥシの家族についても簡単に説明しておきたい。父親はアレクサンデル・パヴェウ(1777~1847)、母親はマリアンナ(1789頃~1853)。父アレクサンデルは、伯父の死後、マゾフシェ地方の諸領地や、ワルシャワの不動産や土地などを相続していたらしい。ワルシャワに住んでいるというから油断していたがこの家も地主だったか……、という思いである。相続した土地の中には後にフリデリクも遊びに行く、サンニキ(ワルシャワから西へ90キロ程)が含まれており、アレクサンデルは、素晴らしい景観の公園や庭の整備、屋敷の改築、小学校の建設など、生活環境の改善に貢献した。
 コストゥシには2人の兄妹がおり、兄トマシュ(1806~1856)、妹アレクサンドラ(1814~1868)。兄は健康な子供で(資料には「弟のコンスタンティとは対照的に」とあるが、コストゥシが病弱だという記述はない)、両親に心配をかけることはなかったという。妹は「オレシャ」という愛称で、フリデリクや、フリデリクの姉ルドヴィカとも親しかった。フリデリクにピアノを教えてもらっていた時期もあったが、優秀な生徒とは言えなかったようだ。

青春時代、どんな風に過ごした?

 コストゥシの家には、頻繁にフリデリクがやって来ていた。残念ながら、当時プルシャク一家が住んでいた屋敷は現存しないのだが、ワルシャワ高校仲良しグループ(ティトゥスもいたようだ)集まっていたという。そこで、コストゥシの妹オレシャもまじえて、夢中になっていた遊びはというと、アマチュア演劇である。家庭でポーランド語やフランス語での演劇が流行していたらしい(ショパン家でもフリデリクや妹たちによって上演されていた)。プルシャク家で行われた演目の一部は分かっており、ウジェーヌ・スクリーブ(フランスの劇作家、小説家)作の喜劇《初恋あるいは子供時代の思い出》、アレクサンドル・デュヴァル(フランスの劇作家、俳優)作の喜劇《結婚の計画》、ルドヴィク・アダム・ドムシェフスキ(ポーランドの俳優、劇作家)作の喜劇《バルバラ・ザポルスカ》など。フリデリクは主役や、重要な役を割り当てられることが多かったようだ。1828年12月27日のフリデリクからティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛の手紙で、プルシャク家での芝居に関する記述がある。

ウジェーヌスクリーブ

アレクサンドルデュヴァル

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需要があるかは分からないが、1枚目がスクリーブ、2枚目がデュヴァル、3枚目がドムシェフスキ。スクリーブの墓はフリデリクと同じペール・ラシェーズ墓地にある。
 演劇つながりで思い出を探ると、1828年8月にはコストゥシとフリデリクは、《セビーリャの理髪師》を観に行っていた。《セビーリャの理髪師》はロッシーニの歌劇で、ワルシャワでは1825年10月29日初演。実はこの夏休み、先ほど触れたプルシャク家の領地、サンニキで過ごしていたフリデリクだが、コストゥシと共に2、3日ワルシャワに戻って来た間のお出かけだったようだ。友人の実家の領地で過ごし、都会に出掛けて友人と観劇……なんとも羨ましい夏休みである。
 更に夏休みつながりで辿る思い出としては、翌年1829年、フリデリクはコストゥシを含まない他の友人5人と国内外の旅行に出かけていた。その途中、温泉が有名な保養地、テプリツェ(チェコ)に滞在。なんとそこにはコストゥシの父アレクサンデルが滞在していた。コストゥシは後から母マリアンナと妹オレシャと共に父と合流したらしい。フリデリクとコストゥシがテプリツェで会えたかは不明だが、フリデリクたちの次なる目的地、ドレスデン(テプリツェから60キロ前後)ではコストゥシの他、マリアンナとオレシャとも会えたということが、フリデリクの手紙から分かる。フリデリクはとても楽しい時を過ごしたようで、一人旅だったらドレスデンに残っただろう、と振り返っている。コストゥシはこの後、クリスマスまでドレスデンに滞在しようと思っている旨をショパンへの手紙に記していたようだ。

ショパン、スキャンダルに巻き込まれる!

 1828年の冬、フリデリクはティトゥス宛の手紙である報告をしている。それは、夏休みを過ごしたサンニキのプルシャク家での事件のことだ。家庭教師を務める女性が、子を身ごもったという。プルシャク夫人(マリアンナ)は、ご立腹。相手の男の顔も見たくない、とのこと。なんと、その事件の容疑者として浮上したのが、フリデリクだった!それにはフリデリクも驚いたに違いない。心当たりが全くないのだから。疑われた理由は、夏休みの間1ヶ月以上、サンニキに滞在しており、その家庭教師と頻繁に庭へ散歩に出ていたから、というもの。フリデリクは手紙で、その女性が全然魅力的じゃないだの、食欲をそそられなかっただのと、随分なことを言っていたが、とにかく無実だった。あわれフリデリクはプルシャク家に歓迎される人物から外されることになるが、真犯人が名乗り出て、誤解はすぐに解けた。
 この話には少し続きがある。30年4月、同じくティトゥス宛の手紙の中で、フリデリクは子供の父親である人物に、産まれてくる子供の洗礼式で、代父になってもらえないかと頼まれたと記している。代母はユスティナ・プルスカ(ショパン家と親しかった。イザベラの名付け親)。同年5月の手紙では、産まれた子供の洗礼が終えたことも記されている。子供の父親が、その子供を養子にして、母親の方は、ワルシャワから遠い地ならば独身の女性としてやり直せるかもしれないとのことで、グダンスク(ワルシャワとは300キロ以上離れている)へとやられることになったようだ。母親の気持ちを思うとやるせない結末である。フリデリクも同じような気持ちで、代父の役目を断り切れなかったらしい。今のところ、フリデリクが代父をつとめた洗礼記録は残っていない。

コストゥシ、オレシャのその後

 コストゥシはワルシャワ高校を卒業した後、1826年にワルシャワ大学法学・行政学部に入学した。前述したように、大学在学中もフリデリクとの交流は続いていた。30年6月に、大学教授らと共にヨーロッパ旅行へと出かける。同年11月にワルシャワで起こった十一月蜂起に参加。学徒親衛隊に所属、後に第六騎馬狙撃兵連隊中尉、そして伯父であるアンブリジ・スカジンスキ少尉の副官を務めて武功金十字章を授与されるが、蜂起が失敗に終わった31年に解任。36年、アマリア・クララ・ユゼファ・アンナと結婚、一人息子アレクサンデル・クサヴェリをもうけた。45年にサンニキ他、領地などを兄弟と共に相続した。フリデリクたちが集まったプルシャク家の館は47年にピアノメーカーのクラール&ゼイドレル社に売却。49年に兄トマシュらと共にサンニキに砂糖工場を設立した。コストゥシは同地に羊牧場も作り、ワルシャワで最も優れた牧場のひとつとして知られていたが、小麦の取引で失敗し、破産の危機に追い込まれた。コストゥシは父と違い、商才があまりなかったらしい。
 妹のオレシャに関しては、ほろ苦いエピソードがある。1830年頃、どうやらティトゥスはオレシャに好意を持っていたらしい。ティトゥスがフリデリクにはっきりとそう言ったかどうかは分からないし、オレシャがティトゥスをどう思っていたのかも分からない。少なくともフリデリクはティトゥスとオレシャがうまくいくことを望んでいた。そんな気持ちから、オレシャと結婚することになるオヌフリ・ムレチュコのことを悪く言っている。フリデリクの抵抗(?)の甲斐なく、ムレチュコとオレシャは1832年に結婚した。しかし、その結婚がオレシャを幸せにしたとは言い難い。女の子を1人産むが、幼くして亡くなり、後に2人は別居生活を送る。54年にオレシャは再婚した。もしもティトゥスとオレシャが一緒になっていたら……と、想像してしまう。

気まぐれ後記
 
前回の更新からかなり経ってしまいました。インプット期間ということにしておいてください!!!まだまだインプット期間が続く気がしますが、少しずつでも記事を書いていきたいので今後ともよろしくお願い致します……。
 さて、今回の補足情報。
・サンニキでフリデリクが滞在していたらしいお屋敷の画像がありました(Wikimedia Commonsより)。

サンニキの館

現在F.ショパンヨーロッパ芸術センターという施設になっているようです。ショパンがいたところにショパンの名を冠する施設が爆誕しているのが定番化しつつありますね。
https://ecasanniki.pl/pl/historia-2/historia-palacu

・プルシャク家の館を買い取ったピアノメーカーが気になったので調べてみました。
クラール&ゼイドレル社
1830年~96年までワルシャワで営業していたピアノ製造会社。アントニ・レシュチンスキ、ユゼフ・ゼイドレル、アントニ・クラールが設立した。レシュチンスキは1819年~30年までワルシャワでピアノ製作所のオーナーだった(フリデリクは「お粗末な楽器」と言っていたが……)。43年、ワルシャワでのフランツ・リストのリサイタルではクラール&ゼイドレル社のピアノが選ばれ、リストは賞賛の手紙を送ったという。62年ユゼフ・ゼイドレルの死後、息子テオフィルが後を継ぎ、様々な賞を得るなど成功を収めた。19世紀末に倒産。

 まさかリストの名前がここで見られるとは思いませんでした。調べものは楽しいですね。
 今回もまぁまぁ長くなってしまったのでこの辺にしておきます。そろそろ何か新しいシリーズを書きたいと思いますが、どうなることやら……。また次回、お会い出来ることを願って。

参考文献
ゾフィア・ヘルマン、ズビグニェフ・スコヴロン、ハンナ・ヴルブレフスカ=ストラウス著、関口時正、重川真紀、平岩理恵、西田論子訳『ショパン全書簡 1816~1831 ポーランド時代』岩波書店、2012年

ピョートル・ミスワコフスキ著、平岩理恵訳『ショパン家のワルシャワ 原資料によって特定されたワルシャワ市内ショパン家ゆかりの地一覧』ポーランド国立フリデリク・ショパン・インスティトゥト、2014年

Narodowy Instytut Fryderyka Chopina
https://pl.chopin.nifc.pl/chopin/persons/detail/id/6628

WIKIPEDIA(ポーランド版、フランス版)
https://pl.wikipedia.org/wiki/Krall_i_Seidler
https://pl.wikipedia.org/wiki/Sanniki
https://pl.wikipedia.org/wiki/Ludwik_Adam_Dmuszewski
https://fr.wikipedia.org/wiki/Eug%C3%A8ne_Scribe
https://fr.wikipedia.org/wiki/Alexandre_Duval

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