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敗けるときも美しく ~ 切なき清少納言に捧ぐ
ほとんど失速することなく佳境に入ろうとしている今年の大河ドラマ「光る君へ」。直近の第38話「まぶしき闇」は、ききょう(ファーストサマーウイカ)がまひろ(吉高由里子)と対峙するところから始まった。息を呑む応酬は観ている者を画面に惹きつける。とがった声で源氏物語の感想を述べ、褒め称えたものの、まひろへの恨みごとを率直に告げる「なぎこさん」(私は敬愛する清少納言のことをこう呼んでいる・理由は以前の記事を参照のこと)は、なんとも切なかった。壊れてしまった藤原伊周(三浦翔平・大熱演)を観ている側からは、なぎこさんも「いつまでも過去にとらわれているイタい人」に見えかねないのだが、まひろの元を去っていく彼女の姿にはそこはかとない悲しみを感じた。賢いなぎこさんにはもはや敗け戦の行く末が見えていて、それでも旧友と思っていたまひろには一言言わずにはいられなかったのではないだろうか。
そもそも、恨みや憎しみを忘れて心平らかに生きようとする方が、人間として上等なのであろうか。つい、そんなことを考えてしまう。昔、ある有名人が人生相談の回答で「もっとも偉大な人間の営為は『赦す』ことです」と言っていたのに、なるほどと思った。だが、よくよく考えてみるとそれもことがら次第である。
犯罪被害者遺族(お子さんをストーカーに殺された)の方のお話を聞いたときに、「加害者が悔いて謝っているのに、いつまでも心を閉ざしているのは不寛容だと非難の目を向けられたことがあります。でも『ものわかりの良い被害者』にならなければなりませんか ?」との問いに答えをみつけられなかった。加害者側と被害者側が対話することによって回復を図る「修復的司法」という考え方がある。窃盗などでは実効性があるかもしれないが、犯罪によっては実現は難しいと思う。自分の家族や愛する人がなんの落ち度もないのに惨殺されて未来を奪われ、その実行者が咎めもなくのうのうと生きていたら、許すまじと思うのが今の世でも一般的ではないのか。大河でも、中宮・彰子の出産時の大祈祷のシーンを見ると、定子がほとんど介助者のつけられない中、出産して命を落としたのは人為的な結果だと周囲が思いつめ、恨むのは無理もない。憎しみを忘れて「自分だけが楽になること」を良しとしない、そんな厳しい途を選んでいる人を、少なくとも批判することはできないのではないか。
仕えていた定子の忘れ形見の内親王もじき亡くなり、いよいよなぎこさんも退場する日を迎えるが、どうなるのだろう。できれば爪痕を残しつつ格好よく去っていってほしい。なぎこさんの夢枕に立った定子に「もうよいのだ、少納言。そなたも幸せになっておくれ」などと言われて、再婚したなぎこさんは西国に下りました、などという、私でも思いつくような陳腐な結末にならないことを願っております。楽しみにしています。