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僕はせっぱつまった哲学書を読みたい

aikoの新譜を聴きながら眠れなくなっている。とてもいい。
「よるのうみ」という曲に、こんな歌詞があるのを目で確認した(視覚優位なもので、aikoの声さえ聞き取れないときがたまにある、そんなポンコツな耳)。

夜の海に飲み込まれる前に
狂うほど想わせて
あなたであたしは
知らない自分を見つける
弱気な日も雪が降る日も
一枚の愛にくるまって

aiko「よるのうみ」(『残心残暑』収録、2024、AIKO&PONY CANYON)

まったく難しくないリリックでも、この人の「狂気」(普通に言えば才気)を感じるんだ、僕は。なおさら深夜に聴いているのでばっちり嵌ってしまう、よるのうみに。
 僕は、たった一枚の愛に毎日くるまって眠れているんだと思う。人は多くを求めるとかえって痛い目に遭う。自分が置かれている状況に僕は全く満足はしていないが、ないものねだりするんじゃなくて、今抱えている大切なものをどれだけ大切にしていけるか、そういうことに重きをシフトしたい。

さて、僕は、「抽象的なことばかり夢想していないで、もっと現実に目を向けろよ」とか、「哲学、特に形而上学はダメだ。机上の空論でしかない」とか、「現実や具体に目を向けることが大事。森を見ず、木を見よ」とか、そういう言葉に強い無念を感じて生きている。
 これらの言葉は、ひいては一般に「哲学」そのものへの批判的態度を備えている、なんて被害妄想的に捉えてしまう。特に、それが小難しい形而上学だったり(でもできれば僕としてもなるべくスッキリした形而上学であってほしいし、形而上学だってより整理され、体系化された「スッキリさ」を自ら望むものであるが)、ことに「思想」になってくると、まぁこれらは昨今てんで人が受けつけない。哲学や思想にうつつを抜かすくらいなら、畑を耕してこい、アルバイトでもして生計を立てろ、とか、そういう即物的・現実主義的な態度に貫かれている人ばかりだ。
 もとい、そういう人は昨今に限らずいつの世でも大多数だ。哲学・形而上学者・思想の人なんて、もともとが超マイナーな存在。そのマイナーが、この歴史というもの(決して哲学史に限らず)の形成に大きなインパクトを与えたり、時代精神を導いたり、大きな影響力を持ち、その力を時に強制的に行使することがあるので、警戒が必要なものなのかもしれない。
 哲学・思想は武器だ。武器は行使するとき暴力を伴う。だからこそ正しく使われるために様々な訓練・養成を必要とするものなのだとも思うが。

 僕は大学時代、ある人に、「あなたの発言は、全然地に足がついていない。空想論でしかない。もっと具体的な事例を言ってみて」と言われたことがある。確かに細部を正確に記述したり、分析したり報告したりすることは苦手かもしれないなあと今の自分ですら思う。英語や現代文では、「要はこのパラグラフは……全体としては……」という大局を捉えるほうが得意だった。物事の細部・具体性をしっかり見つめてこそ、そこから演繹して理論なり結論を取り出す、というのが、「正しい」認識の方法だ、というのは僕でも分かる。
 だが、現実・事実を具に見つめるとは、果たしてどういうことなのだろうか。それがよく分からなくなるのである。

 ジル・ドゥルーズの本をぱらぱらと読んでいると、「権利状態」「権利としての~」という言葉遣いが目につくことがままある。それについての詳しい注釈や論文、はたまた哲学史上の背景をあまり知らないので今から言うことはそれこそ誤読に近いのかもしれないのだが、この「権利状態」は「事実」状態とセットになっている、と僕は把握している。権利状態とは「~であるべき」「~であるはずの」状態ということだ。
 一方、事実状態としては、「~だ、~である」「現実としての~」くらいの意味だ。
たとえば、「世界は平和であるべきだ」というのが権利状態としての世界、「現に世界は露ウ戦争やパレスチナ紛争を抱えている」というのが事実状態としての世界、ということになろうか。
 ドゥルーズはこの「権利/事実」の用語を、これとは方向性が異なる使い方をしているように思われるので、これ以降ドゥルーズの名を出すのはやめておこう。

 自分語りの話に戻せば、僕は権利状態のものを夢想ちがちなのかもしれない。世界がこうあればいい、自分の性格はこうあってほしい、人は優しくあるべきだ、うんぬんかんぬん。でもこれは誰にでもあるじゃないか。理想を浮かべる、理想状態・権利状態を語る、そもそも理想・権利を語りたいという欲望は普遍的なものであると思われる。

 一方で、人は現実というものを実によく知っている。生活しているときがそれである。特にシビアでせっぱつまった状況に陥るとき。この時、人は集中して現在の状態を把握し、そこからの精確な判断を迫られる。こういう時、自分ではよく覚えてないし振り返りとかも怠るのでよく覚えていないが、なるべく物事をつぶさに見つめて分析さえしていると思うのだ。すごいじゃない自分。
 というか、せっぱつまった生活をしているとき、われわれは現実や事実というもののシビアを嫌というほど知らされる。それはあくまで「自分周りの現実」なのかもしれないが。

 こうして、僕は、いや人は、権利状態と事実状態のはざまを揺れ動く。現実に徹することは疲れることだ。すぐに「女はこうあってほしい!僕みたいな男性を優しく扱ってほしい!」とか(お前そんなこと思ってるのかよ)。理想を語る。権利を主張する。でも、理想や権利に終始することもまた実に空しい。それこそが、大学時代の知人が僕に対して向けた厳しさなのだろう。

 人は、だれでも分裂しているものだ。二重化されている。権利と事実に。理想と現実に。それがどんな形であれ統一される場が自我というものなのだろう。あるいは権利状態としての僕も、事実状態としての僕も、両方「僕」なのだ。

 さて、さきほど書いたように、「あなたは空想的だね」とか「哲学って現実を軽視しているよね」っていう言説にいつも虚しさと軽い憤りを覚えるのだが、これではなんの話か分からなくなってしまった。一つ言えることがある。哲学や思想は、せっぱつまったものであるべきだ。あるいは、せっぱつまったもの(対象)を、せっぱつまって扱う(方法・意図)のが哲学・思想である。これだ。だから、知的遊戯にしか受け取れられないような現代思想のジャーゴンや、教養に対する衒学的な態度は、反感を買うのだろう。デリダやフーコーに全く責はないと僕は思う。彼らはいかなる時も全力でシビアである。それを雑に輸入・ドメスティック化し、間違ったノリを展開してしまった日本の思想界がよくないんだと思う。時代状況もあるのでしょう。
 もちろん、真面目腐った時代遅れの哲学界に新しい風を吹き込む、というスタイルはアリだろう。そのためにあえて軽薄を装う。しかし、そのようなポップな哲学でも、やるときはせっぱつまってやらないと。
 特にこんなせっぱつまった時代状況においてはなおさら。

という、当たり前といえばしごく当たり前なことを書いてしまった。一方で、せっぱつまった状況ばかりで苦しくなったとき、そこから離脱することももっと重要だよなぁと思う。このせっぱつまった問題、だれか考えてくれませんか。

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。