カルマあき評
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、昔からこの言葉が腹落ちしたことがない。何故なら罪とは抽象で、抽象に対しての憎悪とはどうすれば良いのか全く分からないからだ。憎悪の対象は必ず具体的でなければならない。(その点、愛は対象が必ず抽象になる)
という、長年の疑問に対する一つの答えが与えられたのが、ゆ虐だと思っている。弱さや不道徳といった罪(ここでは道徳の方の)に具体的な形を与えられたからだ。あの饅頭は人の罪を具現化したものだ。無知、傲慢、倦怠、暴食、貧欲、淫乱、嘘、他にも色々。およそ善良に生きる人間なら、憎んで当然の悪徳である。人は憎んではならないが、罪なら憎んでいい。故人もそう言っている。だから好きなだけ憎悪を向けて何が悪い、と俺なら開き直る。
冒涜が性癖といったけど、自分にとって冒涜の最たるものがゆっくり虐待(以下ゆ虐)だった。
2010年代で文学と呼んで差し支えないと思ったのはこれらくらいだ。
特に代表的なものを2点挙げると、以下の作品だろう。
「よわいものいじめはゆっくりできないよ!」
https://w.atwiki.jp/ankoss/pages/135.html
ゆっくりに対してわざわざ手間隙かけて弱さの設定をせっせと積み上げて何がしたいんだ、というツッコミも妥当なところはあるが、後述する通りそれは人間の弱さの投射のようなものだから、意味はあると思っている。
全編その愚かさ(特に対象は問わない)への制裁。
「かけがえのないいのちなんだよ!」
https://w.atwiki.jp/ankoss/pages/2461.html
ヴィーガン全般の愚かさの抽出と、そして制裁までも同時にやった快作。
命に重さがあるとするなら、それは人間にも手に余るが、仮に命の重さなどフィクションだと切り捨てた場合に、それでも生じる生命への扱いの残忍さは、生命(と呼んでいるもので別に対象は饅頭でもいい)よりも対象への振る舞いに対しての評価になるのかと思った。
自分でも書こうかと思ったくらいだけど、カルマあき氏が書いてるものが、大体自分が書こうとしたものの方向性に完全に一致してたので、何一つ書くものがなくなったくらいだから、悔しいので批評というか解説だけでも残す。
氏の作品集はこちら
https://w.atwiki.jp/ankoss/pages/3648.html
自分が書きたかった冒涜、あるいは既にカルマあき氏が書いた冒涜とは何か。というよりゆ虐の根底は何か。
それは人間より一段階上の超越存在(所謂神のような)から人間たちを俯瞰したと仮定して、人間を純粋な道徳的観点から強烈に批判的に評価したものを、今度は人間を超越者と仮定し、併せて一段階下の存在を仮定する。
この場合の一段下の存在がゆっくりという名の饅頭生物である。
そして、人間への批判をその饅頭に下す。
つまりやってるのは弱さに対する徹底的な断罪な訳である。
ここで大事なのは虐待というのはたまたまそういう結果でしか無いということである。
凄く純化した道徳で、同じく純化した弱さを徹底的に糾弾する構図が本題であり、虐待や虐めは副次的な産物なのだ。
現実にやっているものの例を他に挙げるとすれば、ナチスとかに対するそれが近いかもしれない。
(余談だけど、この超越存在をそのまま存在すると仮定して、力で以て人間を糾弾ないしは虫のように扱うジャンルが多分クトゥルフ神話なんだろう)
なぜ道徳的断罪と虐待が同じ構図になってしまっているかというと、弱さと生命、尊厳が不可分になっているからだ。
(これは病巣と人間本体とか不可分で、外科手術に麻酔なしでは痛みを伴うのが必然であることと同じだ。ここでいう麻酔とは何かは、また別の寓意による)
別にこれは人間にもいえる。所謂人権というもののせいだが、これを近代の発明みたいにいってるけど、もの凄く残酷なことだと俯瞰的視点から寓意的に表している。