諏訪

シナリオとかゲームとか創るエンジニア https://twitter.com/liarsuwa

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最近の記事

7年目の「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」評

「俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)」の最後のシーンを完結から7年たって改めて考えてみると、別にあのシーンはインモラルの選択じゃなかったんだろうと思えるようになった。 冷静に俯瞰してみたら、寧ろ大がかりなママゴトとしてみると一番自然に思える。 兄に恋焦がれ兄と同一化どころから兄を通り越すところまで来ても、なお兄の挫折を知らなかった。 兄なら妹を愛するはずだという歪んだ性癖をどこかで正さなければならなかったが、その機会が来たのは物語の後半になってようやくだった。 兄

    • ある怪談作家から見た「ひぐらしのなく頃に」

      前にもいったけど、「ひぐらしのなく頃に」は前半で止めとけば傑作の「ホラー」だった。 作者の犯した最大の過ちは、「これは謎解きです」という嘘を最後まで吐き通せず、後半から本当に謎解きにしてしまったことだ。 謎は本当にあったかもしれないが、あんな風に解きがたいものを誰が用意しろと思っただろう。 作家にとっての誠実さの証明は嘘をつき通すことであり、間違っても途中で嘘から本当のことをいってはならない。 解けない謎のことを理不尽と言い、理不尽に放り出すことをホラーという。 だからその

      • 自分が考える批評の目的と手段とは何か

        1. はじめに 前々回 https://note.com/mistforest/n/n471a2edfffc3 前回 https://note.com/mistforest/n/n8c7454f841c5 と批評をネタに書いてきたけど、ここまで書いてきて実は批評とはなにか、何を以て批評というのか、何のために批評をするのか、という命題が定まっていなかった気がする。 そもそも最初の記事に上げたとおり、批評の手引書は本当に一冊も見当たらないので仕方がないといえば仕方がない。

        • ラノベだろうと、批評の重要性を今一度説く

          https://t.co/moOyCF4ySy?amp=1 へのレスポンスなんだけども、まず「批評が要らないというのではなく、批評家が要らない」という理屈は果たして成り立つのかという疑問がある。 あるいは本当に挙げられている命題は、批評の場がいらない、ということなんだろうか。と、フォーカスしなければいけない点が少々分かりづらい。 批評そのものが不要とまで断定してないんだろうけど(それを言い出したら創作の前提のコミュニケーションがぶっ壊れる)、これに対して前にも書いたけど

          平成レトロスペクティブ

          安倍の辞任について、特に思うところはない。 別段期待が大きかったわけでもなく、本人に才気煥発なところがあるとも思えない。寧ろ第一次組閣の時のほうが、拉致被害者家族への尽力に対しては期待していた。最も尽力だけで終わっていたが。 阿倍の評価というと、結局始めから終わりまで調整型のリーダーであり、今頃になってまた財政出動を始めた、というくらいだ。 同じことをやった政治家として、かつての小渕を思い起こさせる。 小渕の時と今を比較して、何が大きく変わっただろうかと、ふと振り返ってみた。

          平成レトロスペクティブ

          創作者全てに問うが、読み手を一段下に見てないといえるか?

          を全部見た。 非常にシンプルな原因だ。単純に書き手の数が読み手の数を大幅に上回っている。 それを示す兆候なんて20年以上前からあった。今は無くなった雑誌「海燕」の新人賞の応募数が当の雑誌の発行数を大幅に上回っていたそうだ。 何度も繰り返し言い続けてることなんだけど、創作指南の本は電器屋にすら置いている。 技術書とかの棚のゲーム関連を見ると、シナリオ指南術とかそんな感じで混じっている。 一方、批評の言葉の指南書は三省堂本店にも置いているのを見たことが無い。 だからまともな指南

          創作者全てに問うが、読み手を一段下に見てないといえるか?

          差別をやめる唯一の方法

          結論からいうと、選別に移行することである。 シンプルな基準で主語の大きい集団を雑に区分けすることを差別と呼ぶのなら、選別とはその逆で一人ずつ手間隙かけて区分けすることである。 区分けも基準を様々なものを用意する。 学歴や信賞必罰、趣味特技、思想信条など。 選別の結果も詳細なものを用意する。 今の所差別に対抗しうるのは、これだけである。 実際差別が減ってきているのは人類が正義に目覚めたからなどではなく、より人事選考に力を入れ一人ずつ手間隙かけて選別するほうがクレームが少なく、そ

          差別をやめる唯一の方法

          カルマあき評

          「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、昔からこの言葉が腹落ちしたことがない。何故なら罪とは抽象で、抽象に対しての憎悪とはどうすれば良いのか全く分からないからだ。憎悪の対象は必ず具体的でなければならない。(その点、愛は対象が必ず抽象になる) という、長年の疑問に対する一つの答えが与えられたのが、ゆ虐だと思っている。弱さや不道徳といった罪(ここでは道徳の方の)に具体的な形を与えられたからだ。あの饅頭は人の罪を具現化したものだ。無知、傲慢、倦怠、暴食、貧欲、淫乱、嘘、他にも

          カルマあき評

          都条例のことについて正直なことをいうと、自由云々よりメンツの問題でした

          フェミ界隈とのやり取りを繰り返してると、10年前の都条例のことを度々思い出す。 最近ようやく冷静に俯瞰して見れるような気になったので、当時のことを思い出すと、あの頃のモチベーションは表現の自由云々よりも、メンツの方が遥かに先行してたのが、正直なところだったと思う。 ここでいうメンツとは何か。 まず最初に断っておくと、文芸にとって最もムカつく評価とは、人畜無害扱いされることである。 あの当時、エロ漫画の悪影響について、意見は二分してた。 悪影響などない、もしくはあっても読む側

          都条例のことについて正直なことをいうと、自由云々よりメンツの問題でした

          誰か優生思想と社会淘汰の線引について説明してくれないか

          始めに強調しておくと、本稿では優生思想と社会淘汰の是非については論じない。 と、断った上で、RADの人の以下のツイートが否定的な方向でバズっている。 是非については論じない。だが続いてこういうツイートは肯定的にバズっている。 これはどう見ても社会淘汰にしか見えない。 受け入れがたい人間を受け入れろ、という論をここで展開するつもりはない。 で、俺にとって珍妙不可思議なのは、優生思想について否定的にバズるということは、優生思想が否定的に受け止められている証左なんだろうけど

          誰か優生思想と社会淘汰の線引について説明してくれないか

          「総論賛成各論反対」の方がマシな話

          https://togetter.com/li/1362700 から の流れの中でちょっと雑というか枝葉に流れた感があったので一度整理し直す。 そもそも論でいうと、まとめの中の、「世間や社会から圧がかかる」というのは、それはここでするべき話じゃないよね? というもの。 「世間の圧」がどうとかは手段、手続き、運用の段階でする話であって、目的論の話がまとまってない、あるいは合意が取れていない時にするものではない。議論の作法として死ぬほど雑である。 恐らくだけど、ここで雑

          「総論賛成各論反対」の方がマシな話

          死が可視化されたら困る奴等

          https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200723/k10012529561000.html この話題と必ずセットになるのが安楽死なんだけども、自分としてはムダに長く生きたくはなく、ましてや若者に自分の糞の始末をさせるには忍びなく思っている。 これに対して毎回出てくる反論。 「難病や余命僅かな人間に圧がかかりが「自発的に」「本人の意思で」安楽死を選ばされる」という。 https://togetter.com/li/1362700 で、

          死が可視化されたら困る奴等

          結婚の需要の非対称性

          こういうツイートが流れてきたが。 https://twitter.com/hideyosino/status/1281257916419325952 表向きの原因は一目瞭然で、ただ単に需給バランスが異様に偏っているからというのは分かる。 男の夢だけ未だに結婚に留まり、女の夢が自立に向かっていっているのは概ね明らかだが、結婚の需給バランスが取れていた時代は、男の夢と女の打算とがうまいバランスでこそ成り立っていたのに、女の方だけ先に自立していったから非対称が目立つようになった

          結婚の需要の非対称性

          「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見てきた雑感

          見るぞ見るぞといって延び延びになってた「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見た。以下雑感。 三島由紀夫曰く「天皇がもっとブルジョワジィだったなら革命はもっと容易だっただろう」と。 思えば当時よりずっと貧しくなってるのに革命のかの時も出てこない。 恐らく革命のモチベーションは貧富の格差であって貧しさその物じゃないんだろう。 自称リベラル連中にとって一番応えるのが貧者からの冷笑だというのはここ数年で熟知した。 革命の情熱のないリベラルほど嘲笑の的になるものもない。

          「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見てきた雑感

          表現の自由の淵源

          某青いのが表現の自由の顔役やりだしてからしばらく立つけど、誰も表現の自由がどこから来たかも知らなさそうだ。 それについて誰も語らないし、興味も無いのだろうと思う。 それでもあえて、俺がどのように表現の自由と関わり、そしてその根源まで辿っていったかを粛々と綴ろうと思う。 表現の自由について関わり始めてから10年くらいが経つ。 当初は都条例と児童ポルノ法の改正案の時からで、その時俺は何をしたかというと、アレオパジティカを読むことだった。 この本の何が重要かというと、言論の自由の

          表現の自由の淵源

          怪談と呪いと政治

          怪談系のホラーゲームを作ると、怪談のテーマ選びに非常に難儀する。 その内一番気にしているのが、安直な呪いとか幽霊とかを絶対に出さないようにすることだ。 怪談心耳袋とか挙げたらキリがないが、そんなテーマは巷に幾らでも溢れているから除外しているかというと、そうではない。 そのテーマを扱うと突然リアリティの分断が起きるからだと思っているからだ。 何故か。結論から言うと、そんなもの本気で信じられてないと思っているかだ。 何が証明しているかというと政治の世界だ。 呪いとか幽霊の類いは

          怪談と呪いと政治