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【日本古代史】連載その15:海を越えてやって来た神々―卑弥呼と物部はウル(布留)から…巨石信仰と物部氏
邪馬台国(耶馬台国)は耶蘇(イエス)の国
女王卑弥呼はシュメール王国からやって来たキリスト教徒
ウルの武力・鉄器生産を担っていた物部=布留=ウル(氏)
物部(布留=ウル)氏もキリスト教信者
物部(キリスト教)は丁未の乱で崇仏派(蘇我氏ら)と戦う 物部氏(布留氏)は巨石信仰そして石上
順を追って説明して行こう。
★物部氏は仏教を崇拝していたわけではない。キリスト教徒であった。
【丁未の乱】とは、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変、衣摺の戦いともいう。仏教の礼拝を巡って大臣蘇我馬子と対立した大連物部守屋が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。これ以後、物部氏は衰退した。よく知られるのは、戦勝を祈願して聖徳太子が四天王を彫ったといわれる。
これからも分かるように物部氏(布留氏)は、仏教には異教徒であった
のである。
当時は、仏教の教えを国を統治する基本として扱おうとしていた。これに対して、物部氏は反対したのであろう。
有名なのは、聖徳太子が仏教を国家運営の理念としたことでも有名である。聖徳太子が
和をもって尊しとする
というのは、異教徒も含めて和して行こう…を意味していたのである。何もみんなで仲良くしよう、などという俗っぽいものでは無く国家運営をしていく上で協力を要請したのである。
★2世紀後半頃から、朝鮮半島南部伽耶地域から大洪水で日本列島へ新天地を求めてやってきた。しかし日本には先住の弥生人達が平和に暮らしていた。
この弥生人達は、紀元前7~8世紀頃に、中国揚子江下流域の呉や越からやって来た稲作を持つ人々であった。
呉、越は下図のような地域にあった。仲が悪い事の代表に『呉越同舟』といわれるが、まさに日本列島には、呉越同舟でやって来たのかも知れない。
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さて皆さんは古代中国に『殷』という国がありました。ちょうど殷の位置と呉、越の場所は重なっています。
殷の国の場所は下図で示されています。
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『殷』は、御存知のように殷の『青銅器』でも有名です。下図左は、有名な『鼎の軽重』(重量で地位が分かる)といわれる青銅器です。
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★そう、
呉や越の人達は青銅器文明を持って日本列島へやって来ました。
呉の人達は主に瀬戸内海にやって来ました。広島県に呉という地名が残っています。呉の水軍は有名で、造船技術も渡来しました。瀬戸内海に村上水軍などの水軍が残っていたのも、呉水軍の末裔でしょう。戦艦大和も呉の
造船所で造られました。遣唐使船などの外洋船舶の造船もこの地域でした。
★そこへ鉄器を持つメソポタミア(ペルシャ)から渡来民が大勢押しかけて来たのです(東北地方まで)。食糧生産には広い農耕地が必要となったため、日本列島ではいわゆる
倭国大乱
が各地で起きました。農地を巡る争いです。
その頃、弥生時代後期の遺物で、下のような板に描かれた絵が残されています。右側には、明らかに羊(角の特徴から)、すなわち、
ペルシャ絨毯で有名なペルシャ(メソポタミア)の羊
が描かれています。ペルシャ地方の人達と生活があった証拠です。
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