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絶世の美女・万葉歌人『額田王』は、ペルシャ系美人   3.朝鮮半島から来た騎馬民族(弓月氏)とローマ文化民族

 『額田王』がペルシャ系だったというお話は既に説明したように、当時の朝鮮半島『新羅』には2世紀頃から西域(古代ローマ帝国、クシャーナ王朝、サザン朝ペルシャ)の人達が渡来して来た。
 少しじっくりと西域アジアから中国にかけての民族の移動について紀元前3世紀頃から見てみよう。クシャーナ王朝の成立からである。下図は、紀元前210年の東アジアの国と民族の所在を示している。

図1 紀元前210年頃の東アジア

 紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した。これを大月氏と呼ぶ。
 古代遊牧民族の月氏族は紀元前2世紀、匈奴(きょうど)と烏孫(うそん)に破れた後、中央アジアのアム川北部(当時の北バクトリア地域の一部)に追いやられ、大月氏と呼ばれるようになったのである。大月氏はその後の東西貿易に深く関わり、シルクロードの歴史上で最も重要な役割を担うことになる。
 『漢書』西域伝によれば、大月氏は休密翕侯・貴霜翕侯・雙靡翕侯・肸頓翕侯・高附翕侯の五翕侯を置いて分割統治したという。それから100余年後、五翕侯のうちの貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が強盛となり、他の四翕侯を滅ぼして貴霜(クシャーナ)王と称すようになった。貴霜とは、クシャーナの中国漢字表記である。クシャーナ王朝は大月氏であり大月氏諸侯はそれぞれコインを発行していた。バハラーム2世(276年-293年)の時代にはサーサーン朝の支配下に置かれるようになった このクシャーナ王朝は375年に滅亡した。
 一方、『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて帰化したとある。『日本書紀』には、応神(おうじん)天皇14年(283年)に弓月君が百済(くだら)からきて、120県の人夫を率いて帰化しようとしたが、新羅(しらぎ)人に妨げられて、皆加羅(から)国にとどまっていると上奏したので、葛城襲津彦を遣わしたが、3年たっても襲津彦は戻らなかった。そこで平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて加羅に赴かせ、弓月の人夫と襲津彦を連れ戻したとある。
 これについては、3世紀には、百済と新羅が
「実際は5世紀中頃に新羅から渡来した氏族集団と考えられる」
とする説もあるが、『日本書紀』の記述とは真っ向から対立している。
 百済は中国の歴史書『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、漢城(現在のソウル)を中心として、少なくとも4世紀前半頃までには成立していたと見られる。下図は4世紀後半頃の東アジア・朝鮮半島の様子を示したものである。

図2 4世紀後半の東アジア

この朝鮮半島では、百済は、北寄りに位置している。
 ここで想像を逞しくしてみよう!
 百済は、馬韓諸国から出発している。『馬韓』という国名について考えて見ると、明らかに【馬】という漢字がキーワードであろう。当時の国々や権力者たちにとって【馬】は、貴重な生き物であったであろう。
 ここでよく知られた『北方騎馬民族』がいた。北方騎馬民族は、モンゴルから中央アジアにかけて居住していた。この地域は、乾燥しているため農耕には適していない。そのため、遊牧と狩猟で生計を立てていた。食料は乳製品(ヨーグルトなど)や肉で、衣服は毛皮。定住はせず、テント生活をすることが多かった遊牧民族であった。遊牧民族は、東西を結ぶ交易も担っていた。そのためこのルートは「草原の道」と呼ばれた。この草原の道は、草原の道(ステップ・ルート)とも呼ばれている。下図はおおまかなステップルート(草原の道)を示したものである。

図3 ステップルート(草原の道)

さらに詳細に見ると東の方では、下図のように詳細が示される(「ローマ文化王国 新羅」由水常雄著 新潮社より)。

図4 東アジアのステップルート

 こうしてみると、中央アジアにいた騎馬民族『月氏』の民が、百済(馬韓諸国から成立)に【馬文化】を伴って到達していたことは十分に考えられる。
 また図1と図4を見比べてみると、図1に示された月氏の民が図4に示されたステップルート(草原の道)で馬韓諸国(百済になる)に到達していたと想定される。当時の朝鮮半島の詳細図は、

朝鮮半島詳細図

 こうして見ると、百済(馬韓)に到達していた、月氏(弓月君)が新羅に妨害されて日本に行くことが出来ずにいたことも十分に考えられる。
 また、月氏が北方騎馬民族であり、新羅は古代ローマ帝国から到達して来たという出自を考えると、双方の対立もあったことは容易に想定できるが、このことはその後『百済は新羅(唐とも組んだが)に滅ぼされた』ことからも明らかである。
 以上、黎明期であり、国家としての形成期に日本に訪れた二つの渡来民族の源流に迫った。


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