流鏑馬はペルシャから…パルティア(ペルシャ)では、パルティアンショット(【捨て台詞】の意味も)
勇壮な行事として知られる流鏑馬(やぶさめ)は何時頃、何処から来たのであろうか?
タイトル上の写真は、銀製の鉢「エフタルの銀鉢」
パルティアンショットとは、弓術における射法の一つ。軍事においては弓騎兵の射法の一つであり、また、その射法を用いた戦術も指す。
下の写真は日本各地で『神事』の一つとして行われている。
これらの二つの写真を見ればほぼ同じ技術であることが分かる。
そうです。日本古来の弓馬術(伝統的騎射術)である。
「パルティアの射撃」を原義とするこの語(パルティアンショット)が成立したのは、西暦紀元前後数百年のあいだ古代オリエント世界の中央部で繁栄したパルティア王国(紀元前247年頃 -226年)が、その使い手として知られ、何度も交戦したローマ人を体験者としてのちのヨーロッパ人にまで語り継がれたことによる。
では、古代の日本にはどのようにして伝来したのであろうか。
ここで紀元前2世紀後半の下記地図を参照すると、パルティア(イラン、ペルシャ地域)の東方に大月氏の名前が見える。
大月氏は、月氏から来ている。
『月氏は、紀元前3世紀から1世紀頃にかけて東・中央アジアに存在した遊牧民とその国家名』
紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。
何らかの事情により、月氏の一部でパルティアン文化に近い民が弓に関する弓騎兵の技術を持ち、弓月氏と呼ばれていたと推定できる。
実は、弓月君「日本書紀」応神天皇条に、多数の民を率いて渡来したとある。応神天皇14年(西暦283年)に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
以上が弓月君が日本に帰化した経緯である。
弓月君の民は、秦(しん)の始皇帝の子孫であるとされている。
『新羅』と言う国は、『秦』の役から逃れて『馬韓』から、その東の地を与えられたとされる。
これは、『新羅』と『秦』は相いれない関係にあった訳で、『新羅』としては『弓月君(秦の皇帝の子孫)』を許容することは出来なかったと容易に推定される。
同時に、弓月君率いる民(秦から来た人々)である事実が判明する。
後に、これらの民は『秦氏』という姓を与えられて西日本各地に住むようになった。同時に新しい技術を伝えたものである。
以上、古来の『流鏑馬』から、当時の国際情勢と『弓月君(秦の民)』の渡来が史実として実証できる。