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富雄丸山古墳・被葬者は巨人…蛇行剣と木棺から見えて来る実像 ーその1ー
皆さんは、かつて(現在もあり得る)巨人(大男)がいたと信じられるでしょうか?
信じられないとする…これは我々のいわゆる【常識】が判断させるのでしょう。実際の証拠は後に示すとして、
『見たことが無いからいるはずがない』
というだけで『いない、という証明』にはなりません。
この【常識】と言われるものは、中世の地動説・天動説騒ぎと同じなのです。ある意味、『人間の病(やまい)』なのでしょう。
さて、では、富王丸古墳について見て行きましょう。
蛇行剣
日本中で有名になったこの大刀は、下の写真に示すように、
全長:237㎝
あります。
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通常の我々の身長の大きさからするととても大きすぎる太刀になります。
どうしてこんな大太刀が造られたのでしょうか?
では、古墳の埋葬を見てみましょう。
木棺
実際に発掘された木棺の全体像は下の写真です。この写真に挿入された升目が、50㎝×50㎝です。そうすると、木棺はコウヤマキを刳り抜いた(くりぬいた)割竹形木棺(わりたけがたもっかん)で、被葬者や副葬品を収める身とその上に被せる蓋に分かれる。長さ5.3メートル以上、幅64センチメートル(南東端)~70センチメートル(北西端)(いずれも内法の幅)で、最大厚は約5センチメートルである。
これは内法(うちのり)ですから外形はもう少し大きく、6m近くになります。
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こうして、棺の大きさ、蛇行剣の大きさは、現代人の我々よりスケールアップしています。
では、他の同時期の頃の古墳はどうでしょうか?
下の図は、島根県西谷3号墳の木棺の埋葬図です。
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発掘報告書には、棺椁の規模は次のようであり,いずれも南側がやや幅広くつくられている。
椁の外法 南北 2.6 〜 2.55 m,東西 1.25 〜 1.2 m。
棺の内法 南北 2.1 m,東西 0.85 〜 0.8 m
この西谷古墳も木棺、朱(水銀朱)が使われているなど埋葬形式は比較的似ています。
そうすると、木棺の内法(うちのり寸法)を比べますと、
富雄丸古墳:5.3m(以上)
西谷3号墳:2.6m
のように、ほぼ富雄丸山古墳が2倍以上ということになります。
(埋葬がどのようにおこなわれたのか詳細は不明ですが)
棺の長さが、被葬者の身長を考慮(比例)したとすると、
富雄丸古墳の被葬者の身長は通常(我々が想像する)の2倍以上
であった可能性もあるのです。
そう考えると、蛇行剣は我々の身長に合わせて作ったとすると、
1m20㎝位(我々の常識身長に合わせて)
に相当することになります。
実は、奈良天理市の東大寺山古墳から出土した鉄刀は、1m10cmで、まぁ、大きく違う訳でもありません。
そうすると、富雄丸古墳の被葬者が、我々より2倍以上の身長だった、としても不自然ではありません。
次回は、この土地に纏わる
長髄彦(ながすねひこ)神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人…また、世界にもある巨人について見て行きます。