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邪馬台国と卑弥呼…魏志倭人伝は実に正確だった 2.『邪馬…』は『邪馬(やば)』が正しい
江戸時代に『邪馬台国』の一部を【やまと】のように読んで以来、誰一人疑うことなく『邪馬台国』は『やま…』とされて来た。
これが『邪馬台国論争』に決着がつかない原因となった。すでに指摘しているように、【馬】という漢字は、倭人伝が著された頃には、
★『司馬遷』は、【しばせん】
★『馬韓』は、【ばかん】
★『騎馬』は、【きば】
などである。これが『魏志倭人伝』にも当てはまるとすれば、音としては
★★『邪馬…』は、【やば…】
と読むべきであるのは当然である。
では、この議論は、新たな展開を生み出すであろうか?
答えは、『イエス』である。
その前に、
★漢字『邪』の俗字は『耶』である
ことを指摘しておく。その意味で、
★『邪馬台国』=『耶馬台国』
なのである。ここまで来ると、ご存知の方も多いと思うが、実は、九州北部に景勝地として知られた『耶馬渓』なる地がある。ここで、
★『渓』とは、台地や山に挟まれて低くなってくぼんだ地形
を意味する。
これから明らかなように、
★『耶馬台国』とは、【台地状の耶馬の国】を指す
と考えることが出来るのである。下図は耶馬渓付近を示したものである。
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上の地図で表した通り、大分県中津市にある台地上の広がりこそが『邪馬(やば)台国』である。
しかも中津市には、古代の瀬戸内海航路への港である宇佐がある。
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この事実は後に『卑弥呼の都する場所』とも密接に関係する。
『倭人伝』の記述に、
★水行十日陸行一月
の記事がある。
別途、中国の史書に基づいて統計的に『水行』と『陸行』の一日当たりの距離を算定した研究結果がある。それによると、一日当たりの平均進行距離は
★水行は、一日当たり37.8km
★陸行は、一日当たり14.4km
と求められている。
これから、水行(船旅)は、陸行(歩行)よりも、2.6倍以上の距離を進むことが出来る。陸行が時間を要するのは、容易に想像できる。
・雨天はぬかるむ
・川には橋などなく、増水すると待つしかない
・夜天は歩行には危険
・直進は難しい
・休息・睡眠や食事の時間
・草木などの歩行への阻害
・野獣など危険な道中
・重量物の運搬が困難
など、水行(海上航行)に比べて難渋が想定される。
上記の水行と陸行の距離を比較すると、
★(陸行)一月=約29日
であるので、所要日数比は、陸行が、29日÷10日=2.9倍 となる。
陸行では地形に合わせて歩行せざるを得ないので水行に比べて直進できる距離は少ないので、同じ目的地に到達しよとすれば、先に述べた2.6倍よりも実質的には時間がさらに必要となるので2.9倍の差も理解できる。
この事実から、水行十日と陸行一月は、同じ目的地へ到達するのに必要な所要日数とも考えられる。
当時には、水行のための船も想像以上に進んでいたようである。ちなみに、古墳時代初期の船の様子をスケッチしたものである(「古代史研究最前線」木下正史他編 新人物往来社)。
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次稿では、求めて来た結果に基づいて愈々、卑弥呼の都する地を求める。
但し、本稿で分析した結果である『邪馬(耶馬)台国』は九州中津市付近である事も用いる。