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古代の謎・太陽の道34度32分線…開発の基準線 出発点は卑弥呼・淡路島だった!!

 太陽の道と呼ばれる北緯34度32分のライン。
前稿で、この道は大和開発の基準線だったことをご紹介した。
 要は、西から順に東に向かって開発を進め、各地点で次の開発の起点になる場所に、必要な建築物を造って行った訳である。
 こうしながら順次東に向かって国の基礎を造って行ったのだろう。 

太陽の道北緯34度32分線

 では一体、どのようにこの基準線(太陽の道)を描いたのだろうか?
この問いに対する答えは、比較的容易に納得できる。我々が、直線を描こうとする時、まず、始点となる点を決めなければならない。これに水平(北緯34度32分の緯度線)に横線を描くことにより得られる。まぁ、通常のやり方であろう。
 そうすると、この始点を何処にするかと言うことになる。筆者はすでに、二つの稿(本noteでご覧いただけます)にて、卑弥呼の所在地は淡路島であったことを実証している。
 従って、この太陽の道について見ると、
 ★淡路島(卑弥呼存命地)⇒箸墓古墳(卑弥呼埋葬地)⇒伊勢斎宮(卑弥
  呼を祀る

のように時間順に東に向かって線(太陽の道)が延びている。
 さらに古代の知見からも日本列島は西⇒東に向かって開発が進められていたのであるから、これにも矛盾しない。
 これを認めると、逆に卑弥呼が生前には淡路島にいたことも判明する。
 確かに、その候補地である『五斗長垣内遺跡』は、3世紀後半には活動が停止していたことが分かっている。
 これは、卑弥呼が淡路島から何らかの他の場所に移動したことを示唆しているものでもある。
 纏めれば、
 ①卑弥呼は淡路島に居た
 ②その後、淡路島から移動した
 ③死後、箸墓古墳が築かれた
 ④その後、伊勢斎宮に祀られた
という一連の時間の移り変わりに沿って『太陽の道』(北緯34度32分)が描かれて、その線上に築かれて残ったのが古代の主要遺跡であった。
 わざわざ、基準線上に造営すれば、次の始点として基準になるからでもある。(まるで道の横に順次家を建てて行くように)時代が過ぎるに従い、東に向かって(開発が)進んで行ったと考えてよさそうである。
 東西ラインは、天体、すなわち春分や秋分の毎年繰り返す太陽の軌道から正確に描けると言う利点もある、と同時にこの線上に太陽が来れば四節季を正確に誰もが知ることが出来るという事もあった。
 実は、これに垂直に取って行ったのが、『上ッ道』、『中ッ道』、『下ッ道』である。当時から垂直と言うのは容易に認識できたからである(実際、古代中国に古くから『直角定規』は存在した。
 もう一つ、南北の方向は都城を造る上で重要な方向なのである。
 古代中国では、『君子南面』と言うのがあり、天子は南を向いて執務するものとされていた。
 平城京の大仏様もまさに南を向いているのである。

 ★★次稿は、どのように真東西の線を描いたのかに迫ります★★


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