大和・石上神宮…なぜ【イソノカミ】なのか?《日本書紀》から読み解く!
奈良県には多くの古社があります。その中でも最も古い神社と言われるのは、『石上神宮』があります。
皆さんは、どうしてこの名前『石上神宮』が付けられたかご存じでしょうか?
また『石上』と書いているのに、何故【いそのかみ】と読むのでしょうか?
この謎解きは決して難しいものではありません。これは後程…。
もう一つ『石上神宮』には、有名な国宝『七支刀』があります。これには、金象嵌の文字が表裏に記されています。合わせて60余字の銘文が金象嵌で表わされており、その解読が明治以降続けられていますが、いまだ結着は見ていないようです。
(表) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王
□□□□作
ただし、□は、判読できない文字部分です。
この最初の『泰□四年…』は、もちろん中国の年号ですが、いくつかの読み方の候補があります。現在は、【泰和四年】と読むのが主流のようです。
しかしこの年号の読みも、『石上神宮』の成り立ちも想定したうえで読むべきではないでしょうか?
下の写真は文字が見えます(石上神宮ホームページからです)。
では、『石上神宮』と呼ばれる由縁を紐解きましょう。
『日本書紀』なんて信頼できる記事では無いと考えるは短慮でしょう。
キチッと読んでからの話ですねぇ。
さて、『日本書紀』巻九(神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月)を見てみましょう!
「禽獲新羅王詣干海辺抜王臏筋令匍蔔石上俄而斬之理沙中・・・然後新羅王妻不知理夫屍・・・王屍之処必報之・・」
とあります。
もうお分かりでしょう。
★海辺=磯・水辺 ★報いる=祀る
と言う意味なのです。海は湖も意味します。
上の記事は、簡単に要約すると以下のようになる。
「新羅王を捕虜にして海辺に還り処罰した後石上に置いた後砂の中に埋めた。新羅王の夫人に祀るように言った」
これから【いそ(水辺の石の上)神宮(報いる=祀る)】
という事ですから、伝承的な記事と言うものでは無く『日本書紀』と言う記録の記事で説明できます。
では当時に『石上神宮』近辺が水辺であったという事実があったでしょうか?
実は古代に『大和湖』(奈良湖とも)という湖がありました。
以下は、2017-03ー12『たっちゃんの古代史とか』の記事からです。
大和湖のあった地域は、古墳時代の律令制度の頃から、広域的に「磯城郡」があったことから、湖のほんとの名称を想像するこては可能です。当初の大和湖は、磯城湖という名前に近い名称だったのではないかとも想像されます。
では磯城郡と大和湖の範囲を重ねてみる、すると大和湖中心部と磯城郡域はぴったり重なることがわかりました。奈良湖の周辺にシキという地名がないかを探してみます。すると下図のような拡がりになっています。
磯城(シキ)、城上(シキノカミ)、城下(シキノシモ)、信貴山(シギサン)、椎木(シギ)志紀(シキ)、石切(イシキリ)、石木(イシキ)、石上(イシカミ・イソノカミ)、石川(イシカワ)、新木(ニキ=シキ)のような地名が残っています。
以上を参考にしますと、『石上神宮』のあったところは【水辺】だったと十分に考えられます。
仲哀天皇九年と言えば丁度、西暦200年に相当します。
もし西暦200年が正しいとすれば、邪馬台国の頃(250年頃)よりも古い記事と言う事になります。
さてこれから様々な歴史が順を追って明らかにできそうです。