【詩論】~青のスケッチ~べじブルー
『心が動いたとき…詩が生まれる』
※3000文字
私なりのアフォリズムを記すならば、
『とある現象の一瞬を捉え、それを言葉に置き換え、ことばによって再構築した世界を描く。』
これこそが、私が詩を物す際に心掛けている原点である。
言葉、ことばによる世界の再構築作業の連続、これが詩であろう。
ここでいう『世界』の定義とは、生命の営みを続けてゆくことそのもの。
マクロな大宇宙という生命体もミクロな個々のかけがえのない生命も、集合的無意識論の視点でみると、原始の海のような混沌とした全体の中で無限の個々が繋がりあっていると観るのが世界の実相だと思えてならない。
私の定義する世界という概念である。
人はマクロに存してかつ、ミクロな個々として現れて現実生活を日々過ごしている。生老病死、喜怒哀楽、逃れられぬ繰り返しの毎日を誰しも懸命に生きている。
如実に来る未来、過去にも居た、今ここにも居る、これからも居る可能性がある、その自分と、自分を取り巻く環境。依報ともいう、これらと自分を含めてこれが世界だと私は信じるのだ。それも瞬間が積み重なる永続的な時間軸で。
『人生は夢の上だとしても』
そのような世界で生きていく我々の、縁に触れることで現れるどうにもしようのない瞬間の心の動き。日常生活の続いていくさなかに多彩に変化してゆく心の不可思議さ、ゆらぎ。静かに見つめていると非常に面白い。
その喜怒哀楽の瞬間的変化を、自身の心の奥底から掘り出した音で構成するのだ。そのことこそが私の考える、ことばによる世界の再構築作業という概念である。
掘り出した音を並べて言葉を構築し、構築したことばたちで私という個の小宇宙を表現し得たときに、それは詩となる。詩は生まれる。
詩を物すときの言葉には気持ちが乗る。気持ちが乗ったゆえに詩語として、敢えてことばと柔らかく表記しているのだが、イメィジングを重視して詩人としてこだわりたい部分である。折口信夫の提唱する【詩語としての日本語】を読めば、日本語は単なるコミュニケーション手段にとどまらず、単語の組み合わせや言い回しによって、独特の美しい響きや多彩なイメージを生み出すことができるとも述べている。大いに詩論として支持したい考察であった。
『詩は独立している』
詩はとても孤独な主観だ。
しかし同時に詩は、全体に依拠した個々から生まれた故に、つながりをも求めている。読まれなければ詩ではないと断言する。
はるかに故郷をのぞみ、まるで旧知の友を懐かしむかのように。
詩文を能動的に手にしてくれる読み手がいなければ、もはや詩ではないとさえ思うのだ。
よって詩とは主観を好む寂しがり屋でもあるだろうか。
およそ詩作品の成立には読み手の息遣いが必要不可欠なのだ。
日常から溢れてくる
瞬間のことばたち
ほとばしる生命の表現
ことばとは拾うものではない。
ことばとは汲むものだ。
泥沼から能動的に汲みだすものだ。
物事の仕組みを主観の剣で突き刺しえぐって、上空の遥か彼方の宇宙にまで心によって引き上げ続ける努力が則ち、ことばを汲むということなのかもしれない。主観の世界を拡げ続けることで、ときに自己の来し方にも向き合い、それによって痛みを伴うこともあるだろう。
詩人が痛みを抱えたまま見上げるのはいつも空なのだ。それは主観の剣を振りかぶり、常に言葉を汲み上げたいが為だ。
地位も権力も富も目指さない。空のむこうだけを古の詩人達は見てきた。心の奥底に溜まった泥の中から言葉の輝きを、吾のことばとして地道に汲み取る作業である。
下に山口県周南市生まれの詩人、まど・みちおの詩を引用する。
平易な言葉で、日常から広大無辺な時空間をも超えた宇宙までも詩語で表現できる、傑出した詩人の一人だと思う。此方の詩では、日常生活の何気ないなぜ?という視点に、詩人の独創的な洞察力をみることができる。
太陽も月も星も、雨も風も虹も、やまびこも、気にもとめない自然現象であり、言葉自体に特別意味を見出せないかもしれないが、まどみちおの汲み上げた言葉は、「どうして いつも こんなに 一ばん あたらしいのだろう」という主観を加えることにより、世界が再構築されたものであると思う。「どうして いつも こんなに」という問いかけは、誰に対してという意味でない。自身の心の奥底にある、主観の剣だったのだ。詩人は主観の剣を常に磨かねばならない宿命にある。
【どうしていつも】 まどみちお
詩とは自分の内なるものが外へとむかう開放である。
自分の内なるものが言葉の姿を借りて行う自我の解放なのだ、とも思う。その輝きを表現することだけを是としてきた。
一瞬の心の動きに正直であれ、と願う。それは詩人の美しきはかりごとかもしれぬ。
『人間性の滲む世界』
詩は単なる文章ではなく、やむにやまれぬ人間性のどうにもしようのない滲み、歪みだといえる。
滴り落ちる自我ともいえる。
読み手が、手にした詩文を真に完成させて一編の詩として味わうためには、読み手自身の存在から滲みでてくる素朴な感想が必要不可欠なのだ。
そうでなければ古今東西のどのような名詩も単なる文章にしか他ならない。
読み手の感性が詩の完成を手伝うのだ。
重ねていうが読み手がいなければもはや詩ではない。
読み手もまた孤独な主観であれと、読み手に委ねられる結末を、その作者たる詩人は知るすべもないのだが、詩人はむしろその事を喜ぶ。
読み手は自らの意志で手にした詩文を、詩人の唯一無二の心として、読み扱うことこそが、粋というものだろうと思う。
そして、詩人と読み手がつくりあげた詩がようやく誕生する。
詩人と読み手の目の前には、唯一無二の詩の世界が現れる。
【詩は流れた。舟をうかべてほしくて】 べじさん
詩文の旅の途上で見えてくるのは、それぞれの人の来し方であり、それはその人だけの心の風景画となる筈だ。
文芸にはさまざまな主観的鑑賞があっていいということだ。
そのどれもがどのような感想であっても全てが正解なのだといえる。
詩とは瞬間的変化を捉えようともがいて、さらに主観的な詩人のことばをもって世界を切り取ったり、世界の再構築を目指す試みなのだが、そこに読み手の孤独な主観の参加なくしては成り立たぬ文芸でもある。
了
お礼の言葉
私が、読み手となって下さるnoteの皆さまに感謝と尊敬の思いを抱いているのは、こういった理由からです。私の言葉が詩となるためには、皆さまのお力をお借りせずには不可能だということをお伝えしたい。
そのような気持ちを、自身の詩論として一気に書いてみました。
記録として残したいと思います。
もしも読んで下さる方がいらっしゃいましたら、心から感謝します。
本当にありがとうございました。
べじさん記す