鏡としての作品
前々回の投稿まで私の作品の変遷について語っていました。今回の投稿では私が現在作っている作品についての話をしたいと思います。
私は全ての作品をなるべく素手で道具を介さずに作り、作品と呼ばれるものたちに自らの手の痕跡や行為の跡を直接的に残すようにしています。そうすることで私は目の前の物質に自分の身体の一部を分割します。
身体を「もの」に分割するということは、「物質」または「もの」の中の一部に別の形に変換された「自分」が存在していること、それを「自分」であると認めることです。似たような行為として鏡を見ることが挙げられます。鏡は「もの」ですが、そこに映る像が自分であると認められる時、鏡の中に身体が分割されていると言えます。
私が作るものは全て人間を意識していますが、人間の形を意図的に模すことはあえて避けるようにしています。なぜしないのかというと、意味が生まれてしまうからです。意味や名詞を持つものを見るとき、人の思考の幅は限定されてしまいます。それが名前を持つ「なにか」であるとわかった途端にそれ以上のことは考えられなくなってしまうのです。
私は何もモチーフにしておらず、何も作ろうとしていません。あくまで出来上がった作品は私の身体の一部を痕跡として持つものです。
名詞を持たないそれらは「何かに似たなにか」にはなり得ます。私は作品について「人の肉なのか」「人の皮膚なのか」と頻繁に尋ねられますが、「作品を見た人が見たもの」が答えなのだと思います。名詞を持たない存在に出会ったときに鑑賞者自身の中から出てくる言葉は、鏡に映る像のように彼らの思考や視線そのものの反射と言えるでしょう。
私は鑑賞者の身体や思考を外側に持ち出すことに関心があります。先ほどまでの話だと思考を作品に反射させるという内容でしたが、より鑑賞者が身体的に関わるにはどのようにするべきか、現在も模索中です。
最後に参考として私が公式ホームページに掲載しているステートメントを載せておきます。
作品は私という主体であり、
物質という客体である。
それは私の鏡像なのだ。
何者であるか特定不可能なものとして
それは存在し、
全ての人に解釈の余地を与えながら
意味を奪う。
人が視線を向けたくなる、
その行為の潜在性をあらわにしながら。
4回に分けて私の作品についてお話ししてきました。これらの文章が私の作品を見る人にとってどのようなものになるのか、私にはわかりませんが、ふと読んだときに面白いと思ってもらえれば幸いです。今後の投稿はどのようなものにするか、まだ考えていません。好きに書いていこうと思います。
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