mistaken identity

福田由美エリカ(Yumi Erica Fukuda) と 村上万葉(Mayo Mura…

mistaken identity

福田由美エリカ(Yumi Erica Fukuda) と 村上万葉(Mayo Murakami) による考えごと。

マガジン

  • 村上万葉の考え事

    美術作家、村上万葉の考えごと。過去作や制作について言葉にしてみようという試みです。

  • 福田由美エリカの文章

    福田由美エリカの制作、メモ、日記など。

  • 10/26〜10/28、その前とそれからのこと

    2018/10/26〜10/28、武蔵野美術大学芸術祭にて福田由美エリカと村上万葉は「mistaken identity」という名で二人展を開催。この展覧会を開催するにあたって私たちは多くの話し合いを重ね、いくつかのWSを行った。その経緯やその中で生まれた思考についてこの場で発表していきたい。

最近の記事

「見えない身体」(10/21〜23)

2022年10月21日から23日まで、神泉のR for Dというお店で展示があります。今回の展示は∴ (therefore)というキュレーターコレクティブの丹羽惠太朗さんよりお誘いいただき、参加することとなりました。一緒に展示する成定由香沙さんは、建築を専門とする傍ら映像インスタレーションや写真作品を制作されています。 展示の詳細はこちら 「見えない身体」というタイトルは私と成定さん2人の作品に共通するキーワードであり、R for Dという服にまつわる空間を想定して考えた

    • 存在の変容について(名字のはなし)

      私の作品にとっておそらく一つの重要な要素になっている話を少しまとめてみようと思います。 私は両親の離婚の影響で、高校生のころに名字が変わりました。 ひとつ前に書いたnoteで一人称の話とともに、他者からの呼ばれ方について少し触れましたが、名字は人から呼ばれる機会も多いためか、変わると特に自分を形成する重要な何かを奪われたような感覚に陥ります。 ある日を境に、公共の場で、知り合いに違う名前で呼ばれる。書類に違う名前を書かなければいけない。 自分の名前を書くたびに・呼ばれるたび

      • わたしがぼくを呼ぶ

        一人称の話をします。 私の現在の一人称は「わたし」です。「わたし」という一人称は本当に便利です。特に気に入ってはいませんが。 さらに幼い頃、私の一人称は一時期だけ「ぼく」でした。 いつからいつまでそう呼んでいたのかは特に覚えていません。「ぼく」と言うことに関しては親から指摘を受けた記憶もありません。なぜ「ぼく」だったのかも分かりません。私にとって「ぼく」という言葉は不自然ではなく、多くの人が自分にとって心地いい一人称を用いている感覚となんら変わりありませんでした。 ただ、ど

        • 制作メモ

          配ること、移動すること。 コップを交換 買う。 作られたものに対する扱い。 吸い物 椀種。 パペットと話す、人間と話す。 4人以上で集まる。逆光の位置で体操を始める。 ケーキを切りたいように切って、あげたい人にあげてください。 犬を公園においてみんなでみる、そしてそれについて話し合う。それは鑑賞か。 縄跳びをしながら街の中を歩く。駅から学校まで向かう。 皆で会話をしている。(15分)途中で「こんにちは」という音声がなったらみんなでお辞儀する。 腕

        「見えない身体」(10/21〜23)

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        • 村上万葉の考え事
          14本
        • 福田由美エリカの文章
          6本
        • 10/26〜10/28、その前とそれからのこと
          7本

        記事

          ここ一年、自分のペースを保つには。

          こんにちは、久しぶりの投稿になります。福田由美エリカです。9月にアメリカのシカゴにある大学院に入学して一学年が終わりました。 この一年、順調に勉強できたかというと、授業についていくことが大変で、いくつかのクラスは課題の融通をしてもらったり、追加で説明をお願いしたりしながらなんとか終えました。そんな風に制作時間を削って授業のレポートをやっていると、例えば自分は戦争が起きて自分の生活に集中しなければならなくなった時表現活動ができるのかなと思いました。様々な状況下で自分にとって

          ここ一年、自分のペースを保つには。

          視線を、脱ぎ捨てて

          2020年10月31日から11月3日、虎ノ門にあるCurator’s Cubeというスペースで個展「脱ぎ捨てられた視線」を開催しました。ご来場いただいた方々ありがとうございました。 今回の個展で発表した作品は、愛媛のオズハウスにレジデンスで滞在していた際に制作した「オドラデク(”Odradek”)」というシリーズに引き続く形で制作したものです。 Odradek 「オドラデク」とは、カフカの短編小説「家父の気がかり」の登場人物です。人物と言ったものの、オドラデクの実体は人で

          視線を、脱ぎ捨てて

          村上万葉さんの作品について

          村上万葉さん個展開催おめでとうございます。色々と生活に変化の多い今、まよさんがどんな作品を制作して、展示するのか楽しみにしています。 私が村上万葉さんの作品にしっかりと触れたのは三年ほど前からだ。この記事は、鑑賞者からの視点で、まよさんの作品について書こうと思う。本来はもっと前に記事を書こうとしていたのだが、まよさんの作品は私の中で言語化するのが難しくて、中々文章にできずにいた。今回まよさんの個展もあるのでちょうどいい機会だと思い、記事を書くことを決めた。記事は個人の見解な

          村上万葉さんの作品について

          シカゴに着いて一週間が経った

          福田由美です。こんにちは、久しぶりの投稿です。 シカゴに着いて一週間が経ちました。そして今週から授業がオンラインで始まったので、ここ最近の近況について書いていきたいと思います。そしてもう一つこの学期で制作する予定の作品のアウトラインを書いていければと思います。 今秋から、シカゴ美術館付属美術大学の彫刻専攻に入学しました。現在の社会状況で渡航することはリスクもあり難しさもありましたが、今は無事に着けて良かったです。 しかし予想外のことがいくつか到着してから起こりました。飛

          シカゴに着いて一週間が経った

          ティースプーン一杯の水を — 差別と向き合うために小さな声をあげる

          アメリカで起こった事件を発端に差別に関する様々な意見や文章を目にするようになりました。私も自分なりに差別について考えてきた経験があるので、今考えていることや思ったことを文章にして残そうと思います。 この文章では差別意識について私が考えていること、また昨今の状況で直接会って対話できない人たちに伝えたいことを記します。 私は被差別部落の血を引いています。 上京して美大に進学し、大学2年生の頃受けた授業で「差別」をテーマに作品を作る機会が訪れたことをきっかけに部落差別について学び

          ティースプーン一杯の水を — 差別と向き合うために小さな声をあげる

          距離、 見えないもの 見ていたはずのもの

          3月20日、私と福田由美エリカは展示を見に行った帰りにハンバーガーを食べながら今後の制作について話し合った。会う数日前に彼女からアメリカの大学院に合格したことを聞いたため、「離れていても共同でできる作品作りとは何か」が私たちの会話の起点だったように思う。そこから「継続可能な制作の形」が最も大事だという結論に至り、二人が共通で毎日とっている行動について探し始めた。そうして私たちは互いに毎日川沿いを散歩していることに気づいた。 次の日から私たちは散歩する自分の足元を撮影した短い

          距離、 見えないもの 見ていたはずのもの

          体の揺れ、 ひもで作る 人に配る

          こんにちは、このnoteを村上万葉さんと共同でやっている福田由美エリカです。 この三週間ほど、万葉ちゃんと散歩している足元の動画を送っている。二月ごろ、バーガーキングで作品のことを話し合っている時にとりあえず何かやってみようということではじまった。 毎日散歩をして、歩いている足元を10秒~20秒ほど撮影して送る。 今日は動画を撮ってないなと思うと外に出かける。ついでにごみ捨てや買い物などの用事をまとめて済ます。外出の用事があるということで一日の活動に変化が出る。天気にも

          体の揺れ、 ひもで作る 人に配る

          男性作家にも女性作家にもなりたくない

          今回の投稿は最近私がしばしば考えていることであり、気にかかっていることです。 私は自分自身のことを女性とも男性とも思っていません。このことに明確に気が付き周りにも話せるようになったのは最近です。 中高は女子校で過ごしたのですが、当時はジェンダーについてほとんど意識せずに過ごせていました。大学に入って久しぶりに共学という環境に身を置き、私は女として見られているのだなと感じることが増え、少しずつ、しかし確実に疲れを感じはじめました。 昨今様々なシチュエーションにおいて”男女比

          男性作家にも女性作家にもなりたくない

          鏡としての作品

          前々回の投稿まで私の作品の変遷について語っていました。今回の投稿では私が現在作っている作品についての話をしたいと思います。  私は全ての作品をなるべく素手で道具を介さずに作り、作品と呼ばれるものたちに自らの手の痕跡や行為の跡を直接的に残すようにしています。そうすることで私は目の前の物質に自分の身体の一部を分割します。 身体を「もの」に分割するということは、「物質」または「もの」の中の一部に別の形に変換された「自分」が存在していること、それを「自分」であると認めることです。似

          鏡としての作品

          noteについて

          こんにちは。 2019年に武蔵美を卒業した福田由美エリカといいます。 村上万葉ちゃんとは2人展をやったご縁から制作に関する相談をしたり、仲良くさせてもらっています。 さて、去年から半年ほどの間を空けて、これからはnoteに文章を書いていければと思います。拙いものかもしれませんが見ていただければ幸いです。

          noteについて

          分かる / 分からない ということ

          今回の投稿は最近起こった諸々のことから私が個人的に考えていることです。前回の投稿に引き続くものではありませんのでご了承ください。 2019年9月26日、文化庁があいちトリエンナーレ2019に対して「補助金適正化法第6条等に基づき、全額不交付とする」と発表しました。この件から「大衆が分からない美術に対して公金を使えないのは当然だ」「公金を使うのであれば大衆が分かるものでなければならない」という意見がSNS等で散見されるようになりました。今回の件は文化庁の補助金というものが関わ

          分かる / 分からない ということ

          立体で表現すること

          前回の記事の中で、絵の具という物質の流動性に着目しながら絵画制作をしていたと書きました。物質を扱う限り、私はその流動性を活用することができます。よってこの考え方は自然と立体制作にも引き継がれていきました。 立体作品の制作に移行し始めたばかりの頃は、任意で選んだ素材が手を加えることで別の質感を持ち、別の存在へと変化していくとこに興味を持ちます。 無機質な既製品としての素材を「有機的な生命体、または身体の一部に感じさせる何か」へと変化させることを目的として、大作を継続的に制作し

          立体で表現すること