分かる / 分からない ということ

今回の投稿は最近起こった諸々のことから私が個人的に考えていることです。前回の投稿に引き続くものではありませんのでご了承ください。

2019年9月26日、文化庁があいちトリエンナーレ2019に対して「補助金適正化法第6条等に基づき、全額不交付とする」と発表しました。この件から「大衆が分からない美術に対して公金を使えないのは当然だ」「公金を使うのであれば大衆が分かるものでなければならない」という意見がSNS等で散見されるようになりました。今回の件は文化庁の補助金というものが関わっていますが「美術が理解できる人」「美術が理解できない人」という二項対立を前提として語る意見は以前から存在し、私はそれに対して疑問を抱くことが少なくありませんでした。


私にとって作品を見るという行為は未知の言語に出会い、翻訳を試みるようなものです。与えられた情報と自らの知識や経験から様々に推測し、何が書かれているのかを読み解こうとする。読み解き方は人によって変わってきます。そして私は作品の読み解きの際に必要なものは「考える力」であり、必ずしも「美術に関する知識」ではないと思っています。勿論美術の知識があるからこそ楽しめる作品もありますが、そういった作品が美術の知識がない人には読み解き不可能だとは思いません。目の前にあるものを読んでみようと試みることは誰にだってできます。その気になるかは別として。

ここで私の個人的な体験について少しお話しします。私は現在愛媛県に滞在制作しており、私が滞在している施設はアーティスト以外にも旅行者などが宿泊施設として利用することができます。先日まで滞在していた人はバスク人男性でした。私はある日アトリエ内で古い日本の新聞を見つけます。その新聞の一つの特集記事ではピカソの『ゲルニカ』について書かれていました。彼は新聞紙の中の『ゲルニカ』の絵の写真を見て「ゲルニカは僕の故郷からほど近い街で、ゲルニカにあった空爆についてもバスク人が関係しているんだよ。」と教えてくれました。

ピカソの『ゲルニカ』がゲルニカの街への空爆を受けて描かれたという話は有名です。私は彼の話を聞くまでバスクの人々が関わっていることを知りませんでした。そこからゲルニカへの空爆について少し調べ、新たな知識を得ました。おそらくこのことをきっかけに私はピカソの『ゲルニカ』を今までとは違った見方で見ることが可能になるでしょう。違った見方ができるということは、得た知識や経験によって作品の読み解きが変化するということです。

大事なのは、このように読み解きが変化したからといって私は作品を「分かって」いるとは決して言えないということです。バスク人の友人が『ゲルニカ』の絵を見て実感するものと私が見て感じることは全く異なるでしょうし、どちらが正解というものでもありません。私が彼の持つ実感に到達することも、ましてやピカソが持っていたであろう感覚や感情に到達することも到底不可能です。しかし、私には私なりに感じることがあり読み解けるものがある。美術作品とはこのように向き合うものだと私は個人的に思っています。


美術が「分かる」「分からない」とはなんなのでしょうか。「分からない」という感覚は美術作品を見て多くの人が抱く感覚でしょう。私も勿論あります。それは作品という未知の存在と遭遇しているのだから当たり前のことです。では「分かる」とはなんでしょうか。個々人の中にその感覚が存在したとしても、「分かった」と言える内容は人によって違うと思います。作者の意図を理解することを「分かる」という人もいるかと思いますが、意図を理解することと自分が作品を見て感じることは全く別のことだと思います。

「分かる人」「分からない人」という二項対立は本当は「読み解く努力をする人」と「読み解く努力をしない人」なのではないでしょうか。努力という言葉を使うのはあまりよくないような気がしますが、実際多くの作品は立ち止まって時間をかけて考えることを要請していると思います。なぜなら作品は作者という個人が持つ問題意識を元に作られているからです。

そのような未知の問題意識と向き合い、わざわざ読み解くということは時に多くの時間を要し、疲れる作業だと思います。美術に興味が持てない人に無理強いしてまでさせるべき作業ではないと思います。しかし、未知のものと向き合い考える力はどのような分野においても必要なものではないでしょうか。「読み解く努力」を怠ることで見えなくなってしまうものもあるのではないでしょうか。


最後に改めて記しておこうと思います。作品を見る上で必要なのは美術の知識ではなく考える力だと私は考えています。作品について感じたことをたとえ言語化して人に伝えることができなくとも、「分からない」という感覚に支配されてしまったとしても、鑑賞を通して自分の中に残ったモヤモヤは時間をかけて考えることで読み解き、自分なりの方法で消化することができるものだと思います。どのような人であっても。私は、美術が知識を持たない鑑賞者を拒絶するエリート主義の世界だとは思っていません。

今回の投稿は一人の作家としてというよりは、一人の美術好きとして、鑑賞者として書いたものです。私の意見が少しでも美術が「分かる」「分からない」ということに関してモヤモヤしたものを抱えている人の助けになれば幸いです。

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