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【2015乳がんの記憶 職場】絶望しないための希望①

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絶望はしていなかった。いきなり「がん」と言う岩が落ちてきて、先の道が見えなくなってしまった戸惑いと不安の中にいたけれどそれでも、検査を続けながら「前がどこか」を探し求めていた。

病を知る前の私はタフだった。産後の身体を戻すための運動が趣味になっていたから。気持ちもタフだった。育休はいいリフレッシュだった。

育休からあけて、2年目売上も成績が良く、よし来年は昇格も昇給も文句言わせずに推薦取るぞーって気持ちにもなっていた。ここ愛知では東京より男尊女卑が鼻についた。会社はもちろん、社会も「育児は女」の風土が強く、私はその感じが何年居ても馴染めなかった。それは、ママになったら余計に耳に入るようになり、なんなんですか?って違和感は余計私にアクセルを踏ませた。

なんで頑張って働いてることを「旦那さんに申し訳ない」なんだかわからないし、なんで「両立できない自分が情けない」なのかもわからない。

反骨心というよりは、仕方ないって思っちゃうより、周りと違う生き方があってもいいじゃん?て。だから、よし!道を作ってみよう!くらい思っていた。

それに、仕事が素直に楽しかったんだ。育休明けに久しぶりの高いヒールを履いて、ふくらはぎに筋肉剥き出して、ダッシュで保育園にお迎えに走ると、自由になった気がした。

不妊治療中は辞めてもいいやと思っていたけど、今や仕事は「私」というアイデンティティを味わう僅かな自由時間とさえ思えた。

だから、がん告知後にもすぐに仕事に戻ろうと決めて検査に挑んでいた。小さな小豆みたいなしこりに全てを奪われるなんてまっぴらだ。
大丈夫、私は超えられる。

「反対側もがんかもしれない」
言葉を失った。

それからまた反対側に針を刺して、その結果がグレーで、また検査をして、グレーでこうした繰り返しのうちにある日、会社まで辿り着けなくなった。だるくて、眠くて、あれ?どうしたかな。

名古屋駅で営業の車に拾ってもらい、着くまで寝かせてもらい、お客さん前だけはいつものように振る舞い、また車で寝て駅に降ろしてもらう。そんな風にみんなに力を借りながら引き継ぎをして、とても感謝していた。だから、急いで治療して戻らなきゃと思っていた。

つづく↓


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