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5-7. ミラー作品に描かれた少女のパラドックス 【ユクスキュル / 大槻香奈考】

ミラー作品を見たときに思ったこと、それは、

● 少女は鏡の中でどう振舞っているのか
● 鑑賞者が見ているのか、少女に見られているのか
● 観測者(鑑賞者)は「何処」に「居る」のか


ということでした。

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「Faces11」引用元:https://twitter.com/kanaohtsuki/status/712139240688062465?s=21


一見すると、単純に可愛らしい作品として受け止められがちなように見えますが(※あくまでも想像です)、鏡の枠が非現実世界への扉にも見えてとても興味深いです。


ミラー作品は、グッズ的な軽さを備えつつも、「存在するとはどんなことか」「どんな風に存在しているのか」などを問いかける作品でもあるように感じています。個人的には不確定性原理のような不思議な感覚を覚えます。ざっくりとではありますが、以下に不確定性原理について引用させて頂きます。


量子の位置と運動量は本質的な意味で不確定で、その測定値には必ずその不確定性程度の
ばらつきがある。そして、位置の不確定性と運動量の不確定性の積にはプランク定数に比
例する下限がある。

(中略)

不確定性を認めるということは、量子の位置と速度が決まっていないために、軌跡も確定していないということです。つまり、不確定性が正しいなら、(この表現が妥当かどうかは別にして)1個の電子がどんな軌跡を描いて飛んでいるかは神様すら知らないということです。
――『量子とはなんだろう』より
ナツメ注釈:このような限界が存在するだという元々の発見はハイゼンベルクによるものなのでハイゼンベルクの原理と呼ばれることもありますが、現代の量子力学の知識からは正しいものではないということを注記しておきます。

しかし本論は量子力学について述べるものではないので、上述の大まかな前提をもとに、ミラー作品について考察していきます。
(なお、プランク定数 h は光子の持つエネルギ―εは振動数νに比例するという式 ε=hν も、本筋には関係ないので割愛します。)


ここで、鑑賞するお客様を観測者、電子をミラーに描かれた少女と仮定してみましょう。


ミラー作品の目の前に観測者が居るときは、少女は「そこ」に「居ます」。ミラー作品の少女は「絵」ですから、当然観測者が見ていない時もそこに居るように考えるのが普通でしょう。
しかし実際のことは「観測するまでわからない」のです。

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上2点、ともに台湾個展でのミラー作品の展示風景
引用元:https://twitter.com/kanaohtsuki/status/751753953566560256?s=21

電子の位置と運動量は本質的に不確定であり、「観測したその瞬間に初めて“どうなっているのか”がわかる(その前後にどのような挙動を取って
いるかは不明)」からです。目を離している間は、もしかしたら鏡の中で表情を変えているかもしれませんし、鏡合わせにしたならば永遠に続く奥行きの中を軽やかに飛び回っているかもしれません。

もちろんこれは私の空想に過ぎないのですが、そういうことを考えてしまう力が、ミラー作品にはあると思っています。

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そしてもう一つ、ミラー作品を「見て」いる観測者(鑑賞者)は「何処」に「居る」のか、という命題。


鏡はあらゆるものを反射し、左右反転した世界を描き出します。そこに佇む少女。じっと見つめていると段々と足元がうねるような気持ちになります。

自分の足が感じているこの地面の感触が本物で、自分がミラーの中の少女を見ているのか。それともミラーの中に住む少女が、ミラーの外の自分を見つめてきているのか。考えれば考えるほど「存在とはなにか」という哲学的な疑問に辿り着きます。

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上2点、ともに台湾個展でのミラー作品の展示風景
引用元:https://twitter.com/kanaohtsuki/status/751753953566560256?s=21


可愛らしさを楽しみつつこういった思考実験ができるというのも、ミラー作品の魅力だと、私は考えています。

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