言の葉がつくる橋 #あわいメモ
言葉は本当に空っぽで意味がないのだろうかとよく思う。
確かに言葉は多義的で、受け手によって様々な意味を持つので、正確性を求めるのは難しい。
そういう意味では「言葉(だけ)を信じる」のは、やや危うい行為かもしれない。
けれど、もし同じ人が同じ意味で使い続けたなら。
「伝えたいこと」と「(本意とは違う意味で)伝わったこと」の間にあったぽっかりとした空間に、少しずつ少しずつ言の葉が積もり、だんだんと間が埋まっていくのではないか。
すると、「伝えたいこと(ここでは意思や概念とします)」の伝わりやすさは少しずつ精度が上がるのではないかと思う。
発信者と受け手の間にある「伝わりきらなかったこと」という溝を埋めるのは、言の葉という葉で、それが積もれば積もるほど、発信者と受け手の間には橋のようなものができるのではないだろうか。
空いた空間に橋をかけるかかけないかはもちろん発信者次第なので、絶対に橋渡し(言の葉の山を作ること)をやらなければならないと言うには少し乱暴かなと思う。
特に作品発表などの場合、言葉に多義性を持たせたまま曖昧にしておき、受け手の感受性を大事にしたい場合もあると思うので…
それを踏まえても、私はやはり、言葉というものの力を信じたいと願ってしまう。
それは恐らく、正確に自分の意図を伝えたいから、ではなく、「あなたに伝えたいことがあります」という意思表示でもあるからだと思う。
言葉というツールの正確性ではなく、「自分はどんな想いで使おうとしているのか」「言葉でなにをしたいと思っているのか」。そこをじっくり考えながら、言葉と向き合っていきたい。それはおそらくあわいという概念を考えていくヒントにもなるように思う。
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