河野あさみ(あおいうに)さんの作家考を書かせて頂きました【後編】
こちらの記事の続きです。
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第二に、絶対美の追求について。
かの哲学者イマヌエル・カントは、美の追求の結果、「美」とは理性認識の範疇を超えたものであり、自然美こそが「美」であると結論づけたそうです。
河野あさみ/あおいうに氏は、絶対美および普遍的な美を追求する画家です。自己表現や思想表現に用いられがちな絵画の分野において、ここまでストイックに美への追求のみを原動力に描く作家は、近年では珍しいのではないでしょうか。
ここで私個人の見解を述べるならば、具象画における絶対美は限りなく非存在に近いのではないかと考えています。なぜならば具象画である以上、その対象そのものへの興味の有無や嗜好などの個人的な主観が挟まれてしまい、客観的な判断は極めて難しいからです。たとえ モナ・リザであっても、美しくないと感じる人も居る事実がそれを裏付けていると言えるでしょう。
しかし彼女の描く抽象画には「もっと潜在的、普遍的なレベルでの絶対美はあるのかもしれない」という希望を抱かせるのです。なぜならば抽象には、具象において生まれやすい個々人の好みが発生せず、「ただ在るもの」として捉えることが容易になるからです。
そこで、かつてカントによる「自然美こそが美である」であるという定義に対し、「人間の手によって創り出したものから絶対美は生まれうるか」という思考実験をしてみようと思います。
まずは意識と無意識について考えてみましょう。意識と無意識は氷山の図で示されることが多く、海面に出た一角が意識、水中の大きな氷塊が無意識とされます。人間の意識として表出している部分はわずかであり、ほとんどが無意識で支配されていると言っても過言ではありません。
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98
(実際に手を動かしてみると解るのですが)論理思考を巡らせながら抽象を描くのは実は難しいものです。ついつい手癖で描いてしまったり、以前描いた(もしくはどこかで見た)良かった構図に引っ張られやすく、同じような筆致になりがちではないでしょうか。
しかし彼女は毎回違った筆致を見せるのです。彼女は言います「支持体の声を聞き、置くべきところに絵具を置く」と。かといってイタコ的な描き方ではなく、あくまでも論理的でアカデミックです。
私情を挟まない、職人的な制作姿勢に対し、作品は一つとして同じものは無く、やはりまごうことなき画家であることを思い知らされます。理論の裏付けと、これまでにこなした作品数により成すことのできる『無為の筆致』とも言えるでしょう。
さて、ここで一つの仮定を立ててみましょう。それは、彼女は「植物の持つ感覚の【ようなもの】を備えた画家」であるのではないか、というものです。以下で検証してみましょう。なお、決して疑似科学などではなく、科学的な理論と資料に基づきこの文章を書いていることを予めお断りしておきます。
自然美はランダムさが生み出すように見えますが、自然そのものの仕組みは非常に数学的・物理的な法則で成り立っています。ほとんどの木々がフィボナッチ数列によって枝分かれを起こし、花びらの枚数はフィボナッチ数で表されることが多いなど、様々な例を挙げることができます。
また、植物たちは「見たり」「感じたり」していることが、研究で判明してきています(人間と同じ感覚器官を持っているわけでは無いので、あくまでも比喩です)。
例えば、植物たちは青色の光に反応して枝葉を伸ばしますが、赤色の光には反応しません。また、植物の先端が眼のような役割をしており、先端を覆うと光が当たっても曲がらないことも判明しています。
また、ハエトリグサなどは獲物の大きさを「感じとり」大きすぎず小さすぎない虫を、タンパク源として摂取します。ですから、雨粒などがいくら入り込んでもその蝶番形の罠が反応することはありません。
つまり自然物にもそれらの生息に必要な理論が多々存在するのです。美しく咲いている花々は太陽の方向を察知し、そちらに顔を向けていくのです。よく、ランダムさが自然の美しさであると言われがちですが、逆説的に「ランダムであれば自然だ(自然に見える)」というわけではないのです。
これらをまとめると、植物は主観的なものの影響は受けませんが、外的刺激などによる機会的刺激は「感じる」ことができます。当然、脳に相当する組織は今のところ発見されておりませんので、人間と全く同じような「感じ方」をするわけではありません。
では植物のような側面を持つ人物とはどのような人物か。それは、主観を挟まずに美の追求に没頭できる人物を指すのではないでしょうか。白いキャンバスは全ての色の光を反射した物であり、そこに当たる光源の僅かな変化を無意識に感じ取り、筆を動かすことも考えられます。それも、理論的に「美しさとはなにか」と考えながら。
フロイトの説を持ち出すなら、植物の精神には自我と超自我が欠けており、無意識の心理にあたる部分(感覚入力を得て本能的に対応する部分)はあるかもしれない、となりますので、人間の無意識の働きは植物たちの「感覚」に近いとも言うことができるではないでしょうか。
これらの例から、河野あさみ/あおいうに氏の作品は、美術の理論を徹底的に学んだ上で、無意識を「無意識のうちに」表出させ、まるで自然法則のような振る舞い(描き方)をしてるのではという仮説を立てたくなるのです。
するとカントの提唱する「美(自然美)は人間の手の届かない神の領域のもの」にも綻びが出てくるのではないでしょうか。彼女はその「人工」と「自然(あるいは絶対者)」の境界すらも「溶かす」ことができるのだから。
そんな風に考えてみると、きっと彼女なら人間の手から生まれる絶対美に辿り着くのではと、期待が膨らんでならないのです。【了】
2020年12月
文責:ナツメミオ
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Twitter:@misosJP
《参考文献》
▼『色彩検定公式テキスト UC級』日本色彩研究所 著
▼『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち(河出書房新社)』ダニエル・チャモヴィッツ 著 / 矢野真千子 訳