見出し画像

翳に沈く森の果て #6 膿

血と膿

 璃乃(アキノ)は初めて出会った根の繭の中に置き去りだった繭と言葉を交わし、あらゆるものを消耗したものの、何というか達成感のようなものを感じた。ずっと引っ掛かっていたつかえが取れて、すぐには痛みが消えないけれど時間と共に傷がいつのまにか癒えてゆく。そんなのに似ている気がしていた。
 繭にもまたいつか、いつでもどこかで会える気がして新しい友達ができた気分だった。
 繭に別れを言って再び根の森の中を進み始めた璃乃はホタルたちの後を追って、踏み込めばやや沈み込む根や蔓で出来た足場に意識を集中させながら遅い足取りで進んでいくとその道は途端に細くなり、下り坂になって縄梯子でできた坂を降りるように両手を使って揺れる蔓を掴み、ゆっくりと下りて行った。するとまた道が少しずつ広がるように続いて、至る所にある広場が周囲の広場とハシゴで繋がっているかのようだ。歩いて来た道を想像すると、ふとこの空間が脳内の脳細胞のように複雑な立体構造になっているんじゃないかと感じた。
 足場の感触にも慣れて来たあるところで上から僅かに光が降り注いでいるのを感じて立ち止まり見上げると、ずっと上の方から月光のような白い光が降りて来ているのだった。それは暗闇の中にいる璃乃の周りに漂っている霧をホタル達と共にぼんやりと照らすので、璃乃は夢の中にいるような気がした。疲れていて当然だと、ため息をついて少し休憩しようと大きな根に腰掛け、歪な根の壁にもたれて何も考えずに目を閉じた。
 ふと何かに呼ばれた気がして眼を開けると淡い月光の中をひらひらと花びらのようなものが落ちて来ているのに気付いた。璃乃は身を起こして少し先の方にある大きな根の上に着地したそれが根の間に落ちてしまわないようにそっと手に取ると紙切れだった。そこには「234」 、裏返すと「233」とあった。しばらくみつめていたが、それ以上の情報もないのでとりあえずその小さな紙切れをポケットに入れ、もう少しだけ、もう少しだけと進んだ。
 
 暗闇の迷路を一人(ホタルと)彷徨った璃乃は気力も体力も限界で、そこにあった不思議な曲線の根にそっと横たわった。どれくらい時間が経ったのか、突然目が覚めたが視界は相変わらず暗く、根っこだらけだったので思わず眼を閉じた。けれど闇の空間にぽつんと置かれている自分の状況が変わっていない不安と、妙な安心感を感じたのだった。頭の中でぐるぐると考えごとをする癖のある璃乃はやはりここではそれをやめようと首を振った。

 そういえばなんだか遠くでピアノの音が鳴っているような気がしたが夢を見ていたんだなと思い、ホタルたちがまだそこにいてくれることと、かなり弱くなったようだけれど根の間を抜けて降りてくる月光らしき明かりに感謝して重い身体を無理矢理起こしたのだった。まだ疲労は残ってはいたものの、ここがどういう所なのかを知りたいという気持ちと一日も早くここを出て光を見つけたい、太陽が見たい、もし元の暮らしに戻れたら少しでも楽に息をして生きられるようになりたいという強い欲求が璃乃の身体を前に動かすのだった。 


 「繭」と別れてから絶対に来た道を戻れないような迷路を数時間くねくねと上がったり下がったりしながらここまで進んできた璃乃は、また根が密集しているらしい空間に辿り着いた。そこには繭がいた最初の根の繭よりも少し小さい繭が暗い薄霧の中に浮かんでいた。

 璃乃はその繭に近づいて様子を伺おうとして、最初の体験ほどの恐怖は感じなかったが少し鼻につく何だか嫌な匂いを感じた。とにかく、根で出来た繭を照らすように集まったホタルたちと中の様子を確かめようと少し高い位置にある繭の根の底のあたりを探っていると、足元に何か滑るような感触があった。璃乃が目をやると数匹のホタルが足元にやってきたので少し状況が見えたが、恐らく黒い液体のようなものを踏んでいたようだった。

「なに、これ」

 顔を歪めながらゆっくりと片足をあげてみると、何となく重油みたいだなと思った。滑るような感じがしたのはこのせいか。ホタルたちの明かりを頼りに出所を辿ると、どうやら根の繭の底の方から幾つかの根を伝って流れ出ているみたいだった。

 璃乃は繭の側面の根を掴み、揺すったりしながら、公園の遊具を登るように繭をよじ登って行き、崩しやすそうな部分を探した。けれどこの根の繭は思ったよりも厚みがありそうだ。仕方なくしばらく枯れた根を素手で折ったり引っ張ったりしていると、ようやく片手が入るほどの穴を開けられた。璃乃が片目を細めて中を覗いてみると様子が少し見えた。籠のように根で編まれた丸い塊の隙間から入ったホタルたちは、空間の真ん中でぐったりとしている女性らしき人物を照らしていた。

「すみません・・大丈夫ですか?いまここ開けますけど、いいですか?」
 
 璃乃は声をかけてみたが返答がなかったのでとにかく手を動かし続けることにした。腕にも乳酸が溜まり汗も流れ、息も切れたけれどしばらくして出入りできるほどの穴を作ることができた。中を除くとやはり鳥の巣のような空間があり、璃乃は片足から繭の中へ踏み込んだ。中に入ってみると、やはり大学生になった頃の璃乃じゃないかなと思った。


ガラス


 大学生のとき、璃乃はアルバイトをしていた。きっかけは何だったか、また父の言動によって璃乃の限界を越えた時があったのだ。璃乃はそれまでに蓄積していた感情のある線を超えたなと感じた時、目の前にあった自分の部屋のベランダの窓ガラスを何かを投げて割ってやろうと思ったけれどさすがに近所の人も驚かせるしそれはやりすぎだという冷静さを失うことは出来ず、すぐ横にあった部屋の扉に埋め込まれている小さな磨りガラスに右手の拳を突っ込んで割った。瞬間的に手を切るなと思ったので左手で少し右の袖を伸ばして庇ったつもりだったけれど足りなかった。正直に言うと怪我するならそれでもいいと思った一瞬の感情を憶えている。案の定親指の関節の皮膚を切ってしまい、アルバイトに出かける時間だったのに出血がおさまらないので休まなければならなくなり、バイト先に迷惑をかけた挙句父に病院へ連れて行かれるという何とも情けなく大反省する二度目の反乱となった。その傷は右手親指の関節ということもあって何度縫っても半年以上完治しなかった。ふやけて白くなっている皮膚はもうくっつく様子もなく、このまま朽ちて治らないのかもしれないと長い間恐ろしい思いをしていた。どうやって治ったかは記憶にないけれど、今でも天気が悪い時、特に梅雨時期には傷跡が鈍い痛みを発して当時のことを呼び起こしてくるのだった。

 「痛い・・」
 璃乃は、急にその右手の親指の関節が痛みを主張していることに気づいた。

 「璃乃?」
 根の繭の中から大学生だった璃乃が声をかけてきた。

 「あ、う、うん。入っても大丈夫かな?」
 最初に繭がいた根の繭よりもずっと大きさのある根や蔓で出来た卵ドームだったので、璃乃の方が中に入れるなと思った。要領を得ていた璃乃はよじ登りながら何とか根の繭の壁をこじ開けると、ホタルたちの数も少し増えているのか、前よりも中が少し明るく照らされていた。

 「はじめまして・・璃乃。やっぱりあの時の、璃乃だね?」
 根の繭の中にいた璃乃は暗い表情で横たわり、左手で右手の親指を握っていた。ただその指の間からは何かが流れ続けいているようだった。それは璃乃の脚を伝い、足元の根や蔓を伝って下へ下へと続いているように見えた。

 「璃乃、その手、大丈夫!?」
 「ああ、大丈夫。大丈夫。もう、こうして璃乃が来たから、ありがとう。」
 当時の璃乃は疲れた様子だったけれど、少し笑いながら璃乃に頷いて見せた。
 「でも・・それ、ガラス割ったときのよね・・?」
 「そう。ダサいよね。痛いし、治らないし。はは。でも、後悔してない。」
 「そう・・か。確かに、迷惑もかけちゃったけど、あの時飲み込んでいたらもっと苦しんでいたのかもしれない。」
 「今でも、痛い?」つらそうな璃乃が訊ねた。
 「うん、時々。天気が悪い時は特に。タオルを絞ったり瓶の蓋を開けたりする時は痛むから無意識に力を入れないようになってる。庇ってるね。」
 「そっか。失敗だったかな。」
 「いいよ、このくらい。でも、キレる瞬間にいろんなことを考えているところは、我ながら笑えるほど、悲しい。キレるって言わないかもね。ほとほと小さい人間だと感じつつも、父のような人間にはならないってどこかで思っていたのかもしれないな。ただ、よく憶えてるよ、あの部屋にいた璃乃のこと。怒りと恨みが部屋を押しつぶして破壊しそう、いや家ごと全部壊れて無くなればいいと思ってた。」璃乃は当時の璃乃の後ろ姿を描くような目線で思い返していた。
 「そうだね・・その時、感謝もしていたのも確かだし、父はこの家から消えてなくなればいいと願ってたよ。家を出たかったよね。1日も早く、鳥籠から出たいって。」
 璃乃はゆっくりと頷いた。
 「それで、もしかしてこの根っこの繭の下に流れてた黒いもの、その傷から流れてたりする・・?」
 「あぁ、そうだね。ずっと止まらなかったから。」
 「そっか・・外に、ずっと下に流れていっているみたいだったよ。辛かったね・・遅くなって、ごめん。」
 「もう、大丈夫だって。何度もここに来ようとして、何年も悩んでたの、知ってるよ?だから、よく来たね。ありがとう。もう、あとは古傷の後遺症として痛みだけ長い付き合いにはなってしまうけど、これも私たちの一部だから。」
 「なるほどね・・こうして、耐えてくれた璃乃がいるから、いまの私がいるんだ。そうだね・・今の私は、この先の私のためにできること、したいことをしたいな。璃乃、ありがとう。」
 それを聞いてつらそうな大学生の璃乃も、少し笑顔を取り戻していた。
 「璃乃、これ同窓会みたいだね。フフ。」お互いにそんなことを言う機会があるとは、少なくとも今の璃乃は思っても見なかった。
 「じゃあ、今日はありがとう、私行くね。」
 「うん、こんなところまで会いに来てくれて嬉しかった、ありがとう。またね?私もようやくここから出ることができるよ。」
 璃乃は笑顔で大きなその根の繭をこじ開けて、璃乃に手を振った。
 「先行くね」

 璃乃は過去のいろんな自分のことを振り返っては書いたりしながらその時はその時で精一杯だったことを思い出し、何度もそれぞれの出来事について解釈を施してきた。この歳になって違った読み解きができるようになっていたのだ。まさか当時の自分に会えるとは思っていなかったけれど、璃乃は後悔していなかった。とても苦しい道のりだけれど、私は自分を救っているんだな、という感触を得られたことはとても大きな経験だった。

 
 それからまたヒメボタルたちの行く方へ璃乃は歩き始めた。
 どのくらい時間が経過したのかは分からないが、そこから恐らく数十日をかけて想像もつかない大きさの暗い根の世界をホタルたちと共にぐるぐると彷徨いながら根の繭を訪ねる旅を続けたったのだった。

 その数十日間で出逢った根の繭は大小様々だった。想像を超える大きさのものまであった。葡萄とはだいたい粒の大きさが同じじゃないか。璃乃が辿り着いた繭たちのバラバラ過ぎるサイズ感は葡萄のイメージとはかなり違っていた。

 璃乃は何度も休息を取りながら前へと進んだ。辿り着いたいくつかの根の繭は、長い間それぞれの場所でひっそりと存在し、黒い血と膿を流し続けていたのだった。

 璃乃はその光景を見る度にぞっとした。

 見て見ぬふりをして来た景色は実際に見ると想像を超えていたのだった。その光景を見るのはあまりに苦しくて璃乃は何度も挫折した。ここまで来てやっぱり逃げ出したいと何度も思ったが、絶対にもう無理はしないことと、納得できるまではここにいると決めていたから足が出ない時は足を止めて、涙が出る時は感情のままに泣きながら暗闇で眠った。
 ヒメボタルたちは変わらず側にいて辺りをぼんやりと照らしてくれているが、根の世界は下の方に行くほど、あの重油のような黒い血と膿が上から流れてきて集まるせいであちこちが黒い液体で濡れているようだ。その滴り続けた黒い液体で暗い世界が更に暗く、匂いも増していくので、まるで黒い蛇の巨大な巣窟のように思えて来て、ここに来た当初想像した世界よりもずっと重苦しい景色に璃乃はそろそろ自分のことも誰かに迎えに来て欲しいと思った。
 更に数日が過ぎたと思われたある時、意識も朦朧とする日も多くなっていったが、璃乃は何かに掻き立てられるように次の場所へと歩んでいくのだった。根の繭を尋ねる度に、各璃乃たちの語る気持ちや考えは、当然今の璃乃もそのままに感じることが出来たが、何度か振り返ることができるようになっていた案件についてはいつしかその時の璃乃を理解してあげることができるようにもなっていたので、今の璃乃はまた違った角度から話をしてあげることが出来るようになっていたことに気付き始めていた。

 ただ問題は、何人かの璃乃は大人になってから出来た深い悲しみや後悔、不安、罪悪感や恐れを抱えた璃乃のいる繭からも黒い血と膿は流れ続けていて、中には全く動かない璃乃もいた。璃乃は自分で見るのも耐えられない光景もあった。話ができればと真っ黒になりながらの何日か寄り添うべきなのかとも思ったけれど、「やっぱり無理だ」「諦めるしかない」と、その場を去るしかない繭もあった。まだ早かったのかもしれない。
 何度か残念にも思えたが「無理はしない」という言葉に従って、話しが出来る璃乃とだけ対面したのだった。

 ある時、そうやって幾つかの繭を訪ねて、いよいよ暗さも深海のごとく極まって来た根の世界で朦朧としていると、いよいよ体力の限界を感じた璃乃は足元の大きな根の上に倒れ込んで眠りに落ちた。その瞬間、疲労のせいか水滴が水面に落ちるような音が聞こえた気がしたのだった。「それでいい」そんな言葉も聞こえた気がした。

 けれど璃乃はすぐに闇の中で更なる闇に沈んでいった。

 これまで歩いて来た根の道よりも水分を含んでずっと柔らかくなっていた根の上に倒れたので、それらは次第に璃乃の体重で撓り、璃乃は文字通り根っこごとゆっくり下へ下へと沈んでいったのだった。


 

 続






いいなと思ったら応援しよう!