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子どもと大人と / 境界線

近ごろの新社会人は大人としての責任にかけるらしい。
そうか。

大人と子どもの境界は、一体どこにあるのだろう。
生物学的には、それは重ねた年齢にある。

日本一ファビュラスな姉妹でお馴染み、叶恭子さんは、年齢は記号に過ぎないと仰っていたそうだ。
そうか。

生物学的な、「大人への境界線」とは別にある、社会的な意味での、「大人への境界線」。
案外私たちは、後者の境界線こそ、大切に扱っている気がする。


社会的な意味で「大人である」とはどういうことか?
コーヒーをブラックで飲めることであるならば、私だってオトナではある。

古い社会学の本で、女性は第二次性徴を迎えると(つまり妊娠可能になると)大人の仲間入りをする。男性は儀式に合格して大人社会に迎えいれられると大人への仲間入りをする。と、書いてあった。
確かに、部族の試練、日本で言えば元服など、伝統的にはそれに当てはまる事例は多いように思える。
強制的に大人になっていく女性と、先行集団からの承認が必要な男性と、どちらが幸福なのかは分からない。(選択肢がある分、男性だとは思う)。

いずれにせよ「大人になる」とは、社会的責務を果たせると、「大人たちによって認められる」ことが鍵であるらしい。
冒頭の男性が「大人に認められた大人」であるなら、叱られた新社会人は、正しくまだ子どもであるのだろう。

過去の時代の男性が、大人になることを求めたのは、大人と認められなければ、できることが制限されていたからではないかと思う。例えば夫婦になるとか、1人で自由に旅に出るとか。

しかし今や、大人にならずとも、"大人"からの承認がなくとも、消費者でありさえすれば、インターネットなどを通して、簡単に疑似恋愛や快楽にありつける。およそ何でもできる。
そうであるなら、「大人でない」私たちに、「大人でありたい」と思うインセンティブは存在しない。
ならば当然、「大人にならない」。


社会を成り立たせるには、その構成員は「大人である」必要がある。誰もが社会的責任を無視する状況は、ジャングルか、『マッドマックス怒りのデスロード』かの世界になる。力が全ての世界になる。
それを避け、文化的な社会を維持するなら「大人」をしっかり育てる必要がある。そしてその裏として、「子ども」の権利は制限するのが妥当と思える。

ここでいう「子ども」は、例えば何らかの罪を犯した人、不倫や横領や詐欺や暴行といった罪を犯してしまった人、社会的な責務を果たす際に瑕疵があった人が「子ども」と言い得る。
彼らはその意味で「大人でない」のであって、ならば「子ども扱い」して然るべきではないだろうか?

つまり、お酒やタバコはまだ早い。誰かを監督する立場の仕事には就いてはいけない。
マックでは必ずハッピーセットを頼んでもらうようにしよう。


権利は誰にでも与えられるというのは、現実としても理想としても、間違っていると思う。
ある事ができる人は、ある責務を果たすことができる人だけだ。もし大人になることによってできること(権利)が増えないのであれば、私はダラける。大人になんてなる必要はない。

権利がないことは問題ではない。
より大きな問題は、その権利が与えられるか/与えられないか、与えられた後に2度と剥奪されないか。権利の流動性こそが問題なのだろう。

今の新社会人が「大人でない」として、もう状況は変わってしまっている。一度進んだ歯車を、逆回転させることは難しい。
「大人」という義務・権利がダメになったことを嘆くより、別の有効なラベルを創造するのが早いのかもしれない。


社会的権利を資格化する試みは、すでに有名な実現例がある。
中国の信用スコア制度だ。2015年から施行されていて、国民の社会活動(資格、職業、交友関係、犯罪歴、家族構成、消費性向など)を点数にして、融資やサービス利用可否の判断材料とするものだ。
この信用スコア制が導入されてから、疑義は多数あるものの、数値としての社会倫理は改善されてあるようだ。

信用スコア制が示すのは、ここまでの机上の論理が実際的に機能するということだ。
もし「大人」にならない限り、出来ることが制限されるならば、人は「大人」になろうと努力する。


さて、そんな話を聞いたところで、私は少しも日本で信用スコア制を導入してほしいとは思えない。
理論的に言って、尻を叩けば人は「大人」になるとしても、国家に尻叩きを強制してほしくはない。
もう少し穏当に、国家ではなく公共や民間や家族の中で、自発的に大人を志向するようになってほしい。
正体不明の、誰が管理しているかわからないシステムが私たちの倫理を支えるより、私たちの手が届く、見通せる範囲での慣習によって、私たちを大人に導いてほしい。ちょっとナイーブな意見かもしれないけど。


そのために、個人単位で何が出来るだろう。

少なくとも「子どもである」ことを、褒めそやさないように意識してもいいのかもしれない。
この国では、子どもを、若さや可能性や自由として評価し、半ば羨望している節がある。
若さに良さがあることは嘘ではない。
しかし、子どもには出来ないこと、大人だからできることだって多くある。

成熟することで、人は自立して活動的になれる。
真の意味で、1人の人間として人生を歩める。
まだ私の言葉では、大人であることの素晴らしさをうまく語れない。
こうして、大人であることの良さを語ろうともがいていれば、
いつか自分もカッコいい大人になれるかもしれない。
そうであってほしい。



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最後までご覧いただきありがとうございました!
子どもであるとは、大人であるとはどういうことか、深く考えてみると止まらないですね。
そもそもでいうと「自分は〇〇である」という定義がどれだけ必要なのかも一考の余地ありです。
新しめの心理学では人は分裂してあると考えるのが普通なようで、「大人か子どもか」と二者択一を迫ること自体がナンセンスかもしれません。
じゃあ何だったんだこのテキストは…。

(例えばこの本とかは、開かれたアイデンティティを考える上で役に立つかもです。)


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misoichi|ライター📝
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