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原点と天職
わたしは今、ライターの仕事をやっている。noteの別の記事に書いた「とある紙媒体での記者の仕事」である。とはいえ本業の合間にやっている程度のもので収入はわずかなのだが、若い時は漠然と、そして年を重ねるにつけはっきりと「物を書いて収入を」と考えていたので小さいながらも念願をかなえている。そしてその仕事には、本業にはない原点・ルーツみたいなものがある。
今から34年前。わたしは高校3年生だった。
わたしが通っていた高校は、わたしの入学時に創立3年目を迎えた新しい学校だった。「伝統進学校に追いつけ、追い越せ」とばかりに大学受験に非常に力を入れていた。
「受験、受験で楽しみがあまりない」といった生徒の声も少なからずあったが、わたしはもともと学園祭や修学旅行(わたしの学校は、あえて「研修旅行」と言っていた)のような学校行事に少し冷めたスタンスだったので、「勉強、勉強」の学校環境もそんなに悪いものではなかった。ただひたすら、受験のための授業を黙々とこなしていた。
そんな中にあって、「国語表現」という少し毛色の変わった科目があった。国語でありながら3分間スピーチなど実技的なものを習うような科目であり、3年時にわたしはその科目を選択した。
その科目のメインともいうべき題材は、ほぼ1年かけて取り組む「論文作成」だった。小論文のようにその場で考える論文ではなく、各方面から資料を集め、構成を考えて論説の文を組み立てていくといったもので、まさに「国語表現」と言えるものであった。
わたしのテーマは「新潟県の過疎」。最初は何を思ったのか、「テレビと視聴率」を題材にしていた。指導教諭から特に諫められることはなかったが、集める資料と言えば「ザテレビジョン」の「視聴率ベスト20(30だったか)」くらいしかなく(「高校生らしさ」を逸脱すればもっとあったのだろうが)、その上、当時クラスの中で群を抜いてガリ勉であり、ドラマ・バラエティの話題にほとんどついていけなかったわたしが「俺だってテレビに興味があるんだぞ」と言いたかった程度のテーマ選定動機では1年間モチベーションが続くわけもなく、半年くらいでとん挫。予備的に同時進行で進めていた「新潟県のー」をメインに取り組み直した。
作成途中において指導の対象として授業で俎上に載せられたときはどうなることかと思ったが、わたしの書いた論文は年度末の生徒文集で優秀作として掲載されることとなった。授業を受けた生徒は2クラス分、70人くらいだっただろうか。掲載された人数は6名くらいか。何十年も前の話であり、文集も手元に残っていないのであいまいな数字しか言えないのだが、わたしの論文が評価されたのは確かだった。
わたしは小さなころから図工・体育といった実技系の科目が壊滅的にダメだった。「アメトーーク」の「絵心ない芸人」のような絵を書き、「運動神経悪い芸人」のような動きをする、そう言えばいい例えになるだろうか。そんなであるから当然、賞状・トロフィーといったものには全く縁がなかった。何でもできた弟が自分の部屋に多くの賞状を飾っていたのに対し、何の対抗にもなっていない小学校の卒業証書を無理やり張り出していた、みじめな子どもだった。
そんなわたしの「作品」が認められた。
コンテストではない、当然賞状・トロフィーなんかもない。そのようなものを授与されるときの高揚感を味わっているわけではない。
でも、いままで生きてきて経験したことのない「選ばれる」「認められる」喜びがあった。そしてそれは、模擬試験成績上位者として名前を張り出された時とも違う(人一倍勉強はしたので成績は上だった)次元の喜びであった。小さな小さなわたしの勲章だった。
だが、「これがわたしの生きる道」と気が付くのは、遅かった。
大学4年時の就職活動は出版社をいくつか受けたのだが、せっかくこのような経験をしておきながら志望動機が「なんとなく」の域を出ることはなかった。大学合格をゴールにしてしまい、「大学で何を学ぶか」を考えなかった人生におけるわたしの怠慢であった。 バブルはとうの昔に終わっていた。企業は本当にやる気のある者しか求めていなかった。
やっと拾ってもらった地元の食品スーパーで、わたしはダメ社員に徹することになる。ダメな自分をなぐさめるように少ない過去の栄光を必死にかき集める。成績上位、大学合格・・・、「新潟県の過疎」!
そうだ、俺は書きたいんだ!
10年近くたったところでスーパーを辞め、広告営業のかたわらタウン誌も出している会社を志望した。「記事を書きたい」明確な理由を持って。 その会社には惜しくも採用されず、結局今でも続けているドラッグストアの仕事をするのだが、「生鮮より薬・雑貨」が性に合っていたようで、割と順調な仕事人生を送るようになる。こうなると自分に余裕が出てくるもので、却って「物を書きたい」との思いを強くした。地元出版社等に「わたしの書いた原稿を使ってください」と手紙を書いたり(少し無謀だったが)、実際に「こんな文を書いたのですが、どうですか」と別のタウン誌にメールを送ったりもした(「弊誌の雰囲気に合いません」と断られた)。
それらの行動を応援してくれたのが「新潟県の過疎」だった。「文章に向いている」自分の存在証明になっていた。
その後、先述の「別のタウン誌」には企画書を送り採用され、短い期間ながらも連載を持つことができ、そしてくだんの記者の仕事を始めて現在に至っている。 「あのときの生徒文集、どこかに残っていないだろうか」そんなことも時々考える。
もう年齢も、50を過ぎた。 人生を成功したか、失敗したかの二元論で考えれば、平均以下の年収で一度の結婚歴もないわたしは人生を失敗したのかもしれない。だが、自分の原点とも言えるものを持ち、それが自分の仕事に通じていれば「成功か失敗か」の次元では語れない、「『自分』という人生を生きる」。そんな強い生き方をしているとわたしは勝手に思っている。
でも、物書きはわたしの天職かと言われると、?。答えはまだ先になりそうだ。