俳句と“からだ” 200 まなざし(黒田杏子先生追悼)
藍生俳句会の月刊俳句誌『藍生』に連載した「俳句とからだ」。丁度200回で終了した。これは黒田杏子先生の逝去によって藍生俳句会が幕を閉じたからだ。
黒田杏子先生にはたくさん書く機会を頂いた。ただ感謝するのみである。数日前、藍生俳句会の事務局から完全に会が終了する旨の連絡があった。黒田杏子先生の生涯のパートナーで写真家の黒田勝雄氏のご挨拶も同封されていた。この文章は「俳句とからだ」というタイトルにもっも相応しい内容になったと思っている。
今後会員はそれぞれの俳句の径に散っていく。
黒田杏子先生、運営に携わったスタッフの皆さん、藍生の会友、ありがとうございました。
花は咲き、花は散り、季節は一気に過ぎ去った。その間に黒田杏子先生も逝かれてしまった。山梨県で講演をされた翌日。巡礼者として生涯を全うされた。
みな過ぎて鈴の奥より花のこゑ 杏子
大きな喪失感を埋め合わせるため俳句を詠んだ。多くは桜と黒田先生に関係のある句となった。ところが推敲しようと読み返しているときあることに気づいた。俳句を詠むとき自分のまなざしだけで無く、同時に常に黒田先生のまなざしにも包まれていたのだ。勿論我々はあらゆるとき、自分と他者のまなざしを共有して物事を見ていることは知っている。大人とは、社会人とはそうあるべきである。実生活において自分の行動を相対化し、俯瞰して律することこそ道徳的に成長した人間である。
花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ
杏子
実生活から離れた俳句などの創作においても鑑賞者を思いながら普遍的表現と独創的表現の狭間を模索する。それは自分の個性をどのように表現するかという作家的意識だ。そのことは十分理解していた。しかしそこに黒田先生のまなざしが常に自分を支えるように存在していたことに師を失ってから気づいたのである。
花巡る一生のわれをなつかしみ 杏子
黒田先生との縁はおよそ四十年前に遡る。今は無き牧羊社から刊行されていた総合誌『俳句とエッセイ』が若者向けに始めた雑詠欄「牧鮮集」の選者と投句者の関係だ。その後その関係は黒田先生創刊の「藍生」に移り、三十年以上継続した。その間、師弟関係は存在するのが当たり前のこととして無意識化されていた。
自分が俳句を詠むとき、読み手としての黒田先生のまなざしが無意識の下で影響していたのだ。自作の良し悪しを自分で判断するときも常に黒田先生のまなざしが方向を示して下さっていたのだった。
黒田先生亡き後、このまなざしはどうなるのだろうか。おそらく黒田先生のまなざしはこれからも変わらずに自分の脳裏で作品を照射することだろう。年月を重ねるうちに師のまなざしはすっかり身体化しているからだ。
黒田杏子先生。長い間大変お世話になりました。ありがとうございます。師恩の本当の深さや広さは未だ見えておりません。しかし、これからも我が句作の指針としてお導きください。身体化した黒田先生のまなざしは今後も圧倒的な力で私を指導し続けることでしょう。私はそれをさらに深く学び直します。これこそ師恩に報いることに違いありません。
花に問へ奥千本の花に問へ 杏子